「上州の古図と山名」からつれづれなるままに想うこと・・・

iwasuge~  裏大高山から眺める魚野川源流の山々。岩菅山から苗場山あたりまで。

 木暮理太郎の「上州の古図と山名」(山の憶い出収録)によると、野反池(野反湖はその後に造られた人工のダム湖)が江戸時代天保末期に出版された「富士見十三州図」という絵地図には沼尻とあったらしい。沼尻とは沼から水が流れ出ていくあたりのことをいうのだそうだが、沼尻といういい方がそのまま地名になったのは、野尻湖のようにそこに集落があるからなんだそうだ。木暮理太郎は、野反の場合どうなんだろうとその名の由来に興味をもっていて、私自身も興味をそそられた。野反湖には確かに千沢の流れ出ていくところがあるが、そこに人が住む集落があったのだろうか。野反湖のような山奥に集落なんて考えられないので、おそらく魚や獣を捕る猟師、もしくは木工の原材を伐採する木地師達がそこに小屋をかけていて、沼尻が野反に訛ったのかもしれない。しかしこれは異説で佐久間象山の沓野日記にある布池から訛ったというのが通説のようだ。(僕は、直感的に小暮理太郎説を実は支持している。何故なら野反湖が上州分であることを認めたがらなかった佐久間象山が、当時の証拠としてあった地図に書かれてあった沼尻を認める訳がないでしょう。もちろん素人判断ですよ!)昔の野反池を知る人は、ニシブタ沢には大きなイワナがたくさんいて、沼には鯉や鮒が泳いでいたというし、昭和初期の頃の文献では、実際ドジョウ捕りの小屋はあったようだ。こんな山奥の中の平坦で開けた野反池のほとりは、昔だって小屋をかけるとしたら桃源郷のような場所だ。現在の野反湖キャンプ場が、ダムが出来たからといってもなおそのロケーションの素晴らしさから人気のあるキャンプ場というのも当然なのだ。そして、木暮理太郎によると、「入山の住民は大倉山付近まで盛んに山稼ぎをするため入り込み、一時は岩菅山あたりまで自村に属するものと思っていたらしい。」とあるから、信州側よりも上州側の村人達が魚野川の源流域を活発に歩き回っていたにちがいない。(明治21年の入山村の書上によると字地の中に、「大倉 千百七拾七町七反九畝五歩。魚ノ川 二千百四拾八町二反三畝拾歩」とあったり、山岳の部に「岩寥山 所在、吾妻郡入山村字魚ノ川」とあるそうだ。)

ところで、変な言い方だが、山国信州の水源地県としての誇りを傷つける唯一の沢が千沢である。長野県を流れる千沢だけが、よその県を水源地にしているのだ。そういうことからいうと野反池は信州の領地であることの方が本当ではないかと言う人もいるかも知れない。そうなれば、上信国境は弁天山から富士見峠を通って八間山に引かれてしまうが、前記したように入山の住民が江戸時代以前から大倉山周辺や魚ノ川源流域を山稼ぎの場として活発に歩き回っていて、秋山郷の人々はとても大倉山あたりまでは来れなかったようなので、この唯一の例外は正しいのだろう。(ただし、鈴木牧之の秋山紀行によると、秋田マタギが秋山郷から入り込み魚野川源流の山々を広範囲に猟場とし、草津温泉にイワナや獣を卸して現金化していたらしいが。)それに対して、上信越の三県境として有名な白砂山をはじめ野反池から稲包山までの山々はまったく山名が記されていなかったらしい。上ノ間山や忠治郎山、上ノ倉山、セバトの頭など明治以降にようやく地図に載って認知された山々だったようで、この方面にも入山の住民たちは進出したと考えられるのだが、どうして山名が記入されなかったのだろう。これらのことはまた調べていきたいと思う。

また、この「富士見十三州図」には、魚ノ川の水源が横手山の上州側から描かれていたそうである。そして安永三年の序にある「上野国誌」にも「赤禿山。(現在も入山の人たちが赤石山のことを鯛のハゲと呼ぶのを聞いたことがある。)大倉山の西南にあり、信濃界なり、此山の内に沼あり沼尻と云、其水と大倉沢と黒沢が合して信州へ落つ。黒沢は赤禿と三クンシ山の際より出。」とあるそうだ。黒沢は現在呼ばれている魚野川の支流名ではなく魚野川のことだろうし、三クンシ山は横手山の上州側の呼称であることから、これは明らかな誤りだ。富士見十三州図や上野国誌が本当だとすると、赤石山を越えてガラン沢の方に水源があったことになる。木暮理太郎自身は「古図の信じ得可き程度」という文章で、江戸時代以前の地理的な情報というのはかなり曖昧で信頼性に欠けると大まじめに述べているが、私はこの場合にかぎっては曖昧で信頼性に欠けるというよりも、事実を意図的に歪曲したんだと考える。それ以前の享保9年に松本藩によって編纂された「信府統記」には、魚野川が赤石山を水源とすると正しく記述されていることから、私は魚野川を生活の糧とする上州側住民の権利主張だったのではないかと推察するのだが。

いずれにせよ、木暮理太郎の「上州の古図と山名」を読んでいると、なぜか昔の絵地図の山々がどんな風に描かれていたか想像力を掻き立てる。正確さにおいて申し分のない2万5千分の1地形図では味わえない何かがもっともっと読みとれそうな気がするのだが。実物が見てみたいなあなんて好奇心がわき起こってくるのは、私の悪い習癖だ。

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裏大高山から眺める魚野川源流の山々。佐武流山から大倉山、八十三山、白砂山、堂岩山、三壁山、八間山。

 筑波学園都市にある、国土地理院を見学に訪れる機会に恵まれた。国土地理院には江戸時代の古地図がたくさん展示されていて、私の興味の中心はもちろん、野反周辺の山名がどうなっているかだった。しかし残念ながらゆっくり見る時間がなかった。下の写真(何という名前の地図か不明)からはちょっとわかりにくいが、そんなにたくさんの山は書かれていなかった。草津白根山や池ノ塔、ミツクンシ山(現横手山)、大倉山くらいだ。横手山がミツクンシ山であるということを確認した。また、池ノ塔山というのがしっかり書かれていることに驚いた。今じゃ直下を志賀草津道路が横切っていて、山としての威厳が全くなくなってしまった。大倉山は今では登山道もなく、野反の奥にひっそりと人知れずある山になってしまっているが、八間山や白砂山の名前がなくても、この時代にはちゃんとあったのだ。あと稲包山の名前が写真の地図からわかるだろうか。稲包山は四万温泉や猿ヶ京あたりの人たちの信仰の山だったんだろうか。この山だって今じゃ知る人ぞ知る山で、一般には知名度のない山に成り下がってしまった。江戸時代の頃と今では、人と山との関わりも大分変わってしまうらしい。地図に山名が載るのは、やはり人と何らかの関わりがあるからに違いないだろうから。

kotizu

古地図を眺めていると、興味が尽きない。いつか再訪して、もっとゆっくり地図を眺めてみたいものだ。

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「上州の古図と山名」からつれづれなるままに想うこと・・・ への2件のフィードバック

  1. 牛歩村 のコメント:

    こんばんは、検索していたらココに辿り着きました。中学生の頃から地図帳で野反湖が分水嶺を越えて上州領であることを不思議に思っていました。そもそも秋山郷だってなんで長野県?って思っていたんですけど‥
    楽しく拝見させて戴いてます。上信越の国境稜線は素敵ですよねぇ~

    • 山雨海風 のコメント:

      牛歩村様 はじめまして ようこそです。地図をじっくり見ているといろいろと新しい気付きや発見があったりして楽しいです。県境稜線と中央分水嶺が一致しない野反湖ですが、他にもたくさん知りたいことがあって興味が尽きないです。コメントありがとうございました。

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