山に忘れたパイプ・藤島敏夫(六合の山を訪れた文人その2)

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藤島敏男 ふじしま-としお

1896-1976 大正-昭和時代の登山家。
明治29年7月12日生まれ。日本銀行につとめる。大正8年日本山岳会にはいり,木暮理太郎(こぐれ-りたろう)らの指導をうける。昭和10年からマッターホルンなどにのぼる。エッセイストとして知られた。昭和51年9月9日死去。80歳。神奈川県出身。東京帝大卒。著作に「山に忘れたパイプ」。(コトバンクより引用)

藤島敏男さんは日本の草創の登山期に、早くも自分流の登山スタイルをもち、悠々と登山やスキーを楽しんでおられた人だと思う。著作は、私が知っている限り、有志が苦労して昔の原稿をかき集め、ご本人の藤島さんも加筆・修正を行い、1975年に出版された「山に忘れたパイプ」という分厚い限定版1冊が唯一だと思う。この本の最初の随筆が本の題名にもなっている「山に忘れたパイプ」という文章である。

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何気なく題名に惹かれて図書館の書棚から引き抜いて、「山に忘れたパイプ」のはじめの何行かを読んでみた。「太平洋と日本海とに水を分けるこの鞍部の草地に腰を下ろして、いまひとたびこの美しい雪に閉ざされた山中の池・・・」このエッセイの舞台がすぐに野反のことだとピンときた。さらに読み進んでいくと、浅間裏の山波やら支流吾妻川やらという地名がでてきて、ついに野反池とでてきたときの気持ち、わかります?

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90年近くも昔の岳人が野反の山々のことをこんなに愛でていて、私はその気持ちがとてもよくわかるような気がして、野反池が今では野反湖になってしまったものの、昔も今も変わらない魅力が野反湖にはあるという気がしてなりません。藤島敏夫さんがパイプを落とした場所の辺りを、僕たちは勝手にビールの丘と呼んでいましたが、90年前の岳人と同じ場所でこの野反の雪の景色を眺めていたのかと思うと、胸が熱くなりました。

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 長い春の日もすでに蒼茫と暮れかかっていた。池のほとりの雪原をずっと歩いて、峠ともいえない無名の鞍部へと登ってきた私たちは、太平洋と日本海とに水を分けるこの鞍部の草地に腰をおろして、いまひとたびこの美しい雪に閉ざされた山中の池の印象を心の底に彫りつけようとしていたのだった。みんな疲れていたのだろう、黙って座り込んでいた。どうせここからは温泉宿までわかりきった道を下っていけばいいので、少しでも長く休んでいようとみんな思っているらしかった・・・(藤島敏夫著山に忘れたパイプから)

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藤島敏夫さんは、何度か野反湖や六合村を訪れていて、暮坂高原にも訪れている。年表を見ると、山スキーで全国各地いろいろな山でも滑っている。もし今も生きていたら、奥野反三山バックカントリーツアーなんか、藤島敏夫さんをガイドしてあげられたかもなんて、ちょっと妄想してしまいました。

 [追記] 私が初めて野反池を訪れたのは、大正十年(一九二一年)の春だった。(紀行編・春の山旅)そのときの美しい印象を忘れ得ず、昭和二年春、この文にあるように、白砂山登山の時も、雪のむら消えの野反池を、もう一度訪れたい願いが秘められていたのだ。池は変わらない美しい姿で、私を喜ばせた。六年の秋、苗場の方から桧岐林道をたどって野反に出たこともあるが、秋の姿も良かった。それからさらに約三十年の後、三十五年九月白砂山から佐武流山へ尾根伝い、苗場山に抜けたのだが、野反湖と池から湖に昇格(?)した野反は、北端に堰堤が築かれて、みる影もないただの貯水池に変わり果てていた。資源開発のためとあれば、やむを得ないが、風景の喪失とでもいうより外に形容のしようがない。本当に惜しいことだと思う。(藤島敏夫著山に忘れたパイプから)

藤島敏夫さん、野反湖うらやまガイドをよろしくです。

それから、野反湖のレンゲツツジが今週末くらいからそろそろ見頃かな。

東側の湖畔を歩きましたが、たくさん蕾が膨らんでいました。

下の写真は、昨日の野反湖の様子です。(2015年6月10日現在)

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鮮やかな朱が新緑と青に、見事に映えていました・・・

 

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