20年以上前の若かりし頃の大高山BCの記録を発掘しました。
当時は大高山への夏道さえも廃道化されていたことを、
この記録をあらためて読み直して想い出しました。
つまり文字通り上信国境の秘峰だったんです。
だから、当時は夏も冬も簡単に登れる山ではなく、
(ほとんど知られていなかったかも・・・)
そんな山に、僕自身が積雪期大高山山頂に立つことを真剣に目指していたようです。
以下、発掘した記録をそのまま載せます。
(ちょっと照れますね。初々しい感じで。あと写真は全部この時のものではないです。)
野反湖を中心として東は三国峠、西は志賀高原へと、標高2000m前後の中級山岳の山々が連なっている。大高山は、野反湖と志賀高原の赤石山との中間あたりに、2079.4mの高さで聳えている。草津温泉あたりからだと、この大高山にはいかにもスキーに適した、広いなだらかな尾根を眺めることができる。しかしマイナーな山域であり、誰かが滑ったという記録は知らない。
昨年の夏と秋に一度ずつ大高山への偵察を試みたが、まだ湯気が出ていそうな熊の大きな糞に驚かされたり、身動きが取れなくなるほどの藪に阻まれるばかりで、大した収穫は無かった。それでも大高山直下には五三郎小屋という立派な避難小屋があるので、かつては登山道がしっかりあったようだ。しかし現在その小屋がどういう状況なのか、周りでは知っている人もいなくて、地元でも最近は登った人がいないようだ。
それで今回は、うっとおしい藪を雪が隠してくれる厳冬期に、スキーを活用して大高山に登頂し、まだ誰にも滑られたことが無いであろう尾根のスキー滑降を試みるべく、1泊2日の予定で開善学校前から出発した。土曜日の午後1時半過ぎ、開善学校前に車をデポ。
今日はここから続く林道の終点でテントをはることにする。天気は、雪がちらつき寒い。強い冬型である。視界もあまり利かず、明日の登頂が危ぶまれるが、天気予報によれば少しずつよくなるというので、気力をふりしぼって歩く。同行の仲間はクロスカントリースキーだ。テレマークスキーよりもさらに軽快そうに先を歩く。ガラン沢が左に険しく切れ落ちている林道を1時間半歩き、今日の幕営地についた。
テントを設営した後、明日のルートを少しでも確認しておくため、偵察に出かける。ここからは地図にも出ている古い登山道を辿りたいのだが、いかんせん1メートルあまりの積雪でもひどい藪を隠すことはできないようだった。ここは条件があまりにも悪い。この時期ならたやすいだろうというのは、甘い考えだった。すぐに進退窮まったが、仕方なく急斜面の壁をミドノ沢へ直接降りることにした。沢の渡渉は問題無く、飛び石伝いに渡って対岸の雪壁を攀じ登る。ここまでくればもう単調な尾根歩きなので、ルート工作を終了する。明日の天気さえ良ければ、登頂間違いなしだ。ところでこのミドノ沢は一見きれいな水なんだが、悪水のようだ。同行はキチガイがつくほどの釣り好きだが、このミドノ沢にイワナがいるんじゃないかと密かに楽しみにしていたらしい。イワナどころか川虫さえもいないので、ちょっとがっくりきたようだ。
翌朝8時過ぎに出発。これから向かう北側の山々はガスっているけど、南の方は雲もなくよく晴れている。目指す大高山は望めないがそのうちそのどっしりとした姿を現してくれるだろう。すんなりミドノ沢をまたいで、今は手入れもされず忘れ去られてしまったような、カラマツの植林地のなだらかな尾根に立つ。ここからはとにかく忠実に尾根筋を登るのだ。1500メートル付近よりようやくカラマツからブナやナラの原生林に変わる。何百年という樹齢のブナやミズナラの大木は、身震いするほどに美しいと思う。植林されたカラマツの木なんかと違って、威厳がある。六合の山々からは、このような原生林は本当に少なくなってしまったのではないか。登るにしたが展望がどんどん開ける。
今度は植生がダケカンバの疎林などに変わる。右に八間山が全貌を現し始め、後ろには浅間山が雄大な姿を誇示する。そして左には一ツ石と呼ばれる1825メートルの小ピークと、2040メートルのダン沢の頭が、間近に迫ってくる。いつの間にかガスが晴れ、真っ青な空が眩しくなってきた。私たちの突然の侵入に驚いたのであろう、つい今しがた駆け上がっていったウサギの足跡が、新雪に生々しく刻まれてある。ミドノ平の手前の1810メートルの小ピークを越えると、アオモリトドマツの林に変わる。
風が強く吹くようになる。天狗平で昼食をとり、12時半頃出発。大高山への最後の登りだ。ミドノ平のちょっとした雪原を横切り、稜線に取り付く。稜線に立つと、魚野川に荒々しく切れ落ちている岩菅山の白い山肌が望まれ、このあたりの自然の厳しさを物語っているように感じた。あと標高差は300メートル弱。
重い湿雪のラッセルに悩まされながら、1時40分登頂した。大高山初登頂。山頂からパノラマを堪能した。さて待望のスキー滑降だったが、気温が上昇してのりのようにベトつく悪雪となってしまい、ほとんど直滑降となってしまった。しかし西向きの斜面でかろうじてサラサラの粉雪が残っていて、きれいなテレマークターンが決まった。同行はクロスカントリースキーなので、滑降では苦労しているようだが、それでも器用に下りてくるもんだ。
以上なんですが、
プチなスキーアルピニズム、
いやいや当時はスキー歩きニズムって嘯いてました。
若かったですネ。
もちろんこの初登ルートはすぐに没です。
もっと快適なバレンタイン尾根ルートを開拓しました。
なぜバレンタイン尾根かって?
その日が2月14日だったからなだけ、です。
初めまして。大高山には1988年の夏に行きましたが、藪漕ぎに終始しました。小屋で一泊して野反湖へ戻りましたが、小屋の屋根は完全に抜けていましたねぇ。
はじめまして コメントありがとうございます。
1988年とは私の登頂記よりもさらに4年前ですね。
小屋で一泊して野反湖に戻られたとのこと、どんなルートだったのでしょう?
大変な藪漕ぎも荒れ果てた小屋のことも懐かしい思い出でしょうね。
富士見峠から歩き始めて、小屋で泊まった後野反湖のダムサイトへ下山しました。
カモシカ平から大高山を超えて五三郎小屋へ泊ったんですね。
登山道が廃道同然だったその頃の藪漕ぎは大変だったでしょう。
当時と比べると今は快適に歩けます。