wpmaster

12月の姥ヶ岳BC

前日からの悪天候で新雪が50センチ以上は積もったようです。先行者がラッセルした深いトレースがしっかりと残されていました。そして2年ぶりに訪れたブナの森は私たちを優しく迎えてくれているようでした。 歩きだしたのがもう10時を回っていたので、途中で二人の先行者がスキーで降りてくるのとすれ違いました。やはり上部はガスで視界不良だったようです。でもフカフカのパウダースノーは楽しんできたようで二人とも笑顔でした。私たちもリフト下の一本だけ楽しんで下山しました。 ところで遅まきながら今シーズンからテックビンディングのテレマークスキーデビューなんです。今日めでたく初歩き&初滑りでした。まだなんとなく違和感のあるテレマークターンでしたが、これで滑るうらやまパウダーへの期待感がかなり高まりました。 2日目も悪天候だったので、プレオープンした近くのスキー場で新しいスキーを履いてコソ錬。昼前から雨が降り出して早上がり。でもおかげで新しいスキーが体の一部になってきている感じがしました。 そして3日目。さすがに標高の高いところは雪だったようです。でもどこでもフカフカのパウダーというわけでもなくてちょっと期待外れでした。 リフト下をシール登行する途中で突然ガスが切れて視界が広がりました。バックカントリーツアーとして最高の展開です。 姥ヶ岳山頂からボトムまで、贅沢なんか言ってられずにプチパウダーの感触を存分に味わいながら楽しく滑り下りました。 そして4日目。雪質は毎日目まぐるしく変化していくことを実感しました。朝から天気のいい今日の雪は、もうクラストがどんどん進んでいました。 シーズン最初のバックカントリーで毎日これだけ違う雪質の変化を実感することができて成果のある遠征でした。 昨日落とせなかった四ッ谷川源頭斜面を軽く一本。姥ヶ岳山頂に登り返して下山しました。 姥ヶ岳山頂からは、昨日見えなかった鳥海山を眺めることができました。 4日目の雪もシーズン初めですから決して悪くはなかったです・・・

古道と山の神

モルゲンロート色に輝く草津白根・本白根山。廃止された清水沢コースと火山灰で焼けた森林の純白の斜面についつい目がいきます。活火山でなければスキー場オープンで滑走可能だったかも。 今日の野反湖です。野反湖の積雪状況を偵察してきました。パウダーサーチは嘘つきませんね。ひょっとして?なんて思いましたが、スキーを背負って行かなくて良かったです。 江戸時代の頃から信州秋山郷との往来があった歴史ある古道をたどってみましたが、年々廃れてしまってどうしようもない状態でした。 山の神の石碑は今回も無残な状態でした。昨年秋も同じでしたが、熊の仕業かな。おそらくだれも歩く人はいないので、元のように戻しておきます。 森林伐採で新しい作業道が網の目のようにつくられていましたが、古道はどうなっていくのでしょうか?

冬の慶良間諸島カヤック旅2

4日目(2004-12-28)  天気予報では、沖縄近海に低気圧が発生するという。そしてこれが、太平洋南岸を北上するらしい。冬、関東平野に大雪を降らせる原因になる気象条件だ。昨夜の散歩では、奇妙なほど星空と満月が綺麗だった。とても天気予報を信じる気にはなれなかった。ところが夜半を過ぎ、突然台風並の風がきっちりと吹き、大粒の雨がバラバラと落ち始めた。  午前中、宿のご主人のご厚意で、座間味島を案内してもらった。カヤックから見るのとは違う海を知ることができた。また、南海の島特有の自然や歴史、住んでいる人たちの様子など、大変興味深いお話も伺う。宿の食堂に、3冊それぞれが立派で分厚い装丁の座間味村史が置かれていた。午後は、自転車を借りて海洋博物館へ出かけた。特攻隊で若き命を幸運にも落とさないですんだという館主の、慶良間諸島の歴史についての語りはとても熱い。この慶良間諸島が、琉球王朝と朝鮮半島や中国との貿易などの外交上の要衝だったらしい。優れた航海術や外洋を航海する船舶技術などがあった。そして何より興味深かったのが、琉球王朝の平和的な外交姿勢や日の丸についての考え方等々。  午後、時々小雨が降る中をいざ出航! 阿真ビーチの入り江から沖合にでると、とたんに風が強くなる。雨は降ったりやんだりだ。それでも海はあたたかいところが、沖縄だ!カヤックからシュノーケルをつけて珊瑚礁の海に飛び込む。この辺りの海の魚たちは、人間になれているのか寄ってくる。魚肉ソーゼージを小さくちぎって海中にバラまくと、たくさんの魚たちが集まってくる。昨日の座間味島東端のダイビングスポットの海では集まってこなかったのに・・・  いよいよ最後の夜になってしまった。明日は東京でも雪になる可能性が高いという。午後の高速船は欠航になってしまった。悪天候を吹き飛ばして、それなりに充実した一日だったが、夕食時になって「明日はどうなるんだろう。」と、ちょっと心配になってしまう。宿のご主人によれば、フェリーは大丈夫でしょうということなので、あまり悩まないことにする。 5日目(2004-12-9)  最終日になってしまった。実は少なからず天気が良くなることを期待していた。しかし、強風が吹き荒れ、沖合の岩礁に打ち寄せる波は、怒り狂っている。キッパリとあきらめがつくというものだ。臨時の防災無線が阿真集落に響き渡る。どうやら高速船はすべて運休。フェリーも時間変更して、午後2時30分発。とりあえず本島に戻れるようで一安心。でも、東京に降雪があったようなので、まだまだ心配の種はあるのだが。  さぁ、撤収だぁ。時折パラパラと雨粒が落ちてきたりしながらも、流れゆく雲に晴れ間が広がりはじめ、まさに撤収日和である。水洗いをして干すと短時間で乾いていく・・・  撤収作業にたっぷり3時間もかけてしまった。宿のご主人のご厚意で、荷物を宅急便屋さんまで車で運んでもらう。そして、4日間お世話になった「ペンションはまゆう」さんとお別れだ。相変わらず風は吹き荒れていたが、太陽が燦々と輝きはじめると、さすがに南国の温かさを感じる。フェリーの時間までやることがなく、ブラブラしながら南の海のカヤックやシュノーケリングの心地よさの余韻に浸った・・・

冬の慶良間諸島カヤック旅1

1日目(2004-12₋25)  クリスマスの朝、羽田を飛び立ち那覇へ。季節風の影響だろう、富士や南アルプスがまるで白波立つ海洋に浮かぶ島々のようだ。慶良間の海ではそんなことがないように祈るばかりだ。  予定より15分遅れで那覇空港に無事着陸。空港からタクシーでホテルへ。タクシーの運転手さんの名前は、島袋さん。まぎれもなくここは沖縄だぁ。荷物を預けてさっそく国際通りへ出かける。スナック菓子やら泡盛やらガラス製品やら、原色が色とりどりの商品をところ狭しに並べたお土産屋さんが、えんえん軒を列ねている。陽射しも眩しくて、いかにも南国って感じ。 2日目(2004-12-26)  泊港を9時出航の高速船で座間味島へ。外海は結構うねりがある。でも慶良間諸島の内海に入るとさすがに島影になるので穏やかだ。富士山の雲海のような白波でなくてホッとする。  宿でさっそく先に送っておいたファルトのカヤックを組み立てる。1月の奄美以来の組み立てなので、手順がわからない。ああでもないこうでもないと、たっぷり1時間45分もかかってしまった。  ラフティー丼とソーミンチャンプルーの昼飯の後、さっそくケラマブルーの海に浮かぶ。 3日目(2004-12-27)  天気は下り坂だ。南国の燦々と降り注ぐ太陽が恋しい。でも、たくさんの島々で囲まれる座間味の海はベタ凪だ。外海もそれほどでもなさそう。カヤックで海に出られるだけでも良しとするか。ただし、天気予報では沖縄地方に波浪注意報が出ていたので、無理はしないことにしよう。宿で朝食をとった後、あわただしく出発の準備を終え、午前9時に美しい白砂の阿真ビーチから出艇する。  カヤックから海をのぞき込むと、珊瑚の回りを色とりどりの魚たちが泳いでいて、目を楽しませてくれる。このエメラルドグリーンの透明な海は、燦々と降り注ぐ太陽の輝きがあればさらに魅惑的だろうが今の私たちには十分過ぎるほどに素晴らしい。やや追い風に乗り、時速7km以上のスピードにのって阿嘉島に進路をとる。右に阿嘉島のニシハマビーチを見ながら、とりあえず慶留間島との間に架かけられている阿嘉大橋をくぐってみよう。  「マリリンに逢いたい」という映画があったらしい。シロという犬が座間味島とこのニシハマビーチの間の海を泳ぎ渡ったという実話に基ずいているらしい。座間味港と阿真ビーチの間の道路沿いに、マリリンの銅像があった。他にも琉球王朝時代の大陸との交易の中継点としての海洋文化など歴史も興味深い。  阿嘉島にオリオンビールを仕入れるために上陸。サクバル奇岩群の向こうに見える外海は、それほど風の影響もなさそうでうねりも大きくない。フェザークラフトのk2なら恐れるほどでもないが、初めての海で無理は禁物である。サクバル奇岩群付近から慶留間島の外側を一周して見たい衝動がわき起こったが、往路を引き返すことにする。向かい潮なのか往路の時速七キロはとても出ず、時速五キロで安室島を目指す。安室島の突端にある外白崎に上陸する。ここは座間味島との狭い海峡をつくっていて、干潮時にだけ現れる。大きな船舶は水深が浅く航行不可能である。沖縄ならではのソーキとカツオ味のカップ麺で昼飯にする。今日のような天気の日は、南国といえども温かい食べ物はありがたい。  昼食後、この外白崎から古座間味ビーチに向かってカヤックを漕ぐ。このビーチも白砂が美しくとても魅力的だ。夏のハイシーズンの頃はかなり賑わうそうだが、今日はポツンと二人の人影を見るのみだ。真珠養殖場のある阿護の浦を過ぎて、島の東側の岬付近には数隻のダイビング船が停泊している。私たちもカヤックで乗り付け海に潜ってみることにする。  海の中を覗くと、色とりどりの熱帯の魚たちが眺められた。オニヒトデも二匹発見。珊瑚の海を食い尽くそうとする悪者だ。駆除したいが、南の海がド素人の私たちは無力だ。おっと、突然ウミヘビ発見。攻撃的な種類だと襲われるかもしれないので、用心に越したことはない。さっさと退散。 2に続く

大阪運河ツアー道頓堀∼南港2007-12-2

 2年前に初めて大阪の運河を漕いだ。桜宮公園からスタートして、大阪城を眺めながら堂島川を下った。中之島付近の巨大ビル群を運河の真下から仰ぎ見たのは、知床の断崖を彷彿とさせた。USJや天保山、海遊館を素通りし、南港にかかる港大橋の下をくぐった。そして尻無川を遡って中之島でゴールした。大阪の街を水面から眺めたことは、学生時代まで慣れ親しんだ街の懐かしさもあって、強く心に残る思い出の一つになった。  今回は京セラドーム(大阪ドーム)からスタートして、まずは道頓堀川を往復する。そして木津川を下り、南港を大きく回って北港ヨットハーバーまで漕ぐというもの。途中道頓堀はもちろん、木津川沿いで大都市のどんな裏の顔が眺められるのか大変楽しみである。また南港には野鳥公園があり、それをカヤックで海から訪ねてみるというのもおもしろそうだ。  午前9時、鮮やかに黄色く染まった銀杏の木の下で、赤と青の2艇のカヤックが組み立てられた。運河に浮かぶと、川面を吹く風は冷たい。なんといってもやはり師走である。それに久しぶりに水の上に浮かんだこともあってか、フラフラとバランスが悪い。大阪湾でもし波風が強かったらと思うと、ちょっと心配になる。しかし漕ぎ始めるとほどなくカヤックが体の一部のようになるのを感じた。橋のトンネルをくぐる。橋の上からえさを投げている人がいるらしく、これがまた知床の海鳥を思い出すくらいたくさんのカモメが集まっている。最近これほど元気なカモメの姿はどこの海を漕いでも見かけなかったので、こんな大都会の光景が奇妙だ。  先を漕ぐQ太郎氏に追いつくと、正面に道頓堀水門があった。第一の閘門がすでに開きはじめていた。閘門は、水位の異なる水面をもつ河川や運河、水路を船が通航できるようにする施設で、事前に許可を届けておかねばならない。すべてQタロウ氏が手配してくれていて感謝である。これはスエズ運河じゃないけど、まさに本格的な運河の航行である。  第一の閘門を進むと第2の閘門があり、それが開かれるには第一の閘門を閉めなければならなかった。第一と第二の閘門の壁にいったん閉じこめられた後、第二の閘門が徐々に開かれた。道頓堀川の方が20センチくらい水位が高く、水が流れ込んでくる。ちっぽけなカヤックでも、一人前の船長みたいな気分だ。いよいよ道頓堀川を漕ぎ進む。  道頓堀界隈をいくら歩き回ったことがあっても、カヤックから眺めた道頓堀の雰囲気は味わえない。街の喧噪とは別世界。ビルの裏側の谷間にある静かな空間をのんびりと漂うようにして進む。橋を歩く人たちのほとんどはカヤックに気がつかないけど、中には珍しそうにこちらを見ている人もいる。道頓堀は現在再開発中である。どうやら今までの異臭漂うドブ川から、水辺に遊歩道のある観光スポットに生まれ変わろうとしていた。  心斎橋と言えばヤマハや三木楽器に輸入盤のレコードを探しに来たものだ。他に名前は忘れたけれど珍しい輸入盤を見つけることが出来る小さなレコード店もあった。通りから少し離れたところに確か島之内教会というのがあって、なぜかここでアバンギャルドなジャズコンサートにやってきたことがある。  河川工事でこれ以上進めないところから引き返す。再び道頓堀水門の閘門を開けてもらい通過する。水門通過は、何度通っても一人前の船長になった気分になり気持ちいい。カヤックから水門をコントロールしている職員に感謝の挨拶をする。こんなちっぽけな2艘のカヤックのためでも、大きな船と同等に扱ってくれることがうれしくなってくる。  そしていよいよ木津川を下って大阪湾へ漕ぎ出す。いつのまにやら天気は下り坂だった。川下からの向かい風が強く、パドルを握る手に力が入る。  木津川を漕ぎ下ると、大阪の様々な表情を見ることが出来る。下町の雰囲気たっぷりの街並みや倉庫、工場、古い造船所などが次から次へと現れ過ぎていく。川沿いにびっしりと粗末なバラックが建ち並んでいるところがあったが、水もガスも電気もないけれどしたたかに生きる人たちの存在感に圧倒されもした。工場に通勤したりする人たちのために、いくつも市営の渡し船があった。なぜ橋ではいけないのか。大型船舶が河川を往来するためにはよほど大きな橋を架けなければならず、それなら渡し船の方が経済的だからというのが理由である。カヤックから渡し船に乗り降りする人たちの様子を眺めながら、人々の暮らしの一端に触れられたような気がした。中山製鋼所を過ぎ、新木津川大橋の真下に上陸地点を見つけて昼食休憩にした。  風が冷たくて早々に出艇。木津川の河口に出ると向かい風がいっそう強くなる。コンテナ埠頭に大きな貨物船が停泊していてそれがちょうど風除けになり、そこで遅れているQタロウ氏を待つ。  これからさらに沖に漕ぎ出ていくのであるが、波風が少々不安になる。向かい風に遅れがちなQタロウ氏はというと、全く不安な様子はなく前進あるのみ。南港内港を過ぎいよいよフェリー埠頭の沖合にさしかかると、白波が立つかなりシビアな状況になっていた。行くか戻るか大きな決断をしなければならないと思った。しかしQタロウ氏は平然と前進あるのみだった。さすがである。これくらいでじたばたしてはいけないのだ。  向かい風と不規則なうねりに翻弄されて、パドリングは一寸の失敗も許されなかった。まわりには大きな波が砕け散る岸壁しかないから、沈したら一人でセルフレスキューするしかないだろう。Qタロウ氏と並んで漕ぐなんて余裕はなく、前進あるのみ。岸壁に停泊している大型貨物船の船員が心配そうに私たちを見ていた。ひきつりながらも笑顔で会釈する。  ここで一旦Qタロウ氏を待ち、GPSを確認。この先に大きな凹の埠頭があるので、とにかくそこへ緊急避難することにする。  どうにか凹の埠頭に漕ぎ着くことが出来た。遅れているQタロウ氏も無事漕ぎ着きホッとひと安心。陽はすでに斜めに傾いていて、今回の計画では北港のヨットハーバーまで漕ぐことになっていたが、このコンディションではあきらめることにした。ただしここで上陸できればの話しだ。凹の埠頭の奥に漕いでいくと、波は収まってきた。そして何やら南国ムードいっぱいのきらびやかな建物が並んでいた。家族連れやカップル、若者達がたくさん歩いている。いったいここはどういうところだ?なんだか漂流者のような気持ちになりながら、カヤックで上陸できるところを見つける。  高い岸壁に小さな階段がつけられているところがあったが、沖合から押し寄せるうねりが岸壁にぶつかりとてもカヤックから下りることは出来ない。Qタロウ氏が何度か試みるもあきらめる。仕方なく岸壁につながれている浮桟橋に上陸することにした。まずQタロウ氏が器用にカヤックから這い上がる。わたしはQタロウ氏のカヤックをサポートする。次にわたしが這い上がり、最後に2人で2艇のカヤックを浮桟橋に引きずり上げた。ホッとした。  ここはATC(アジア太平洋トレードセンター)だった。交通至便で綺麗なトイレ、コンビニやレストランなどがあり、終わってみればゴール地点としてはとても好都合な場所であった。海旅の余韻に浸りながらのんびりとカヤックを分解して片付けをする。夕日が綺麗だ。いい旅を終えた満足感でいっぱいになる。カヤックは近くのコンビニから宅急便で自宅に送り身軽になる。そして、ATCの中にある韓国料理屋さんでQタロウ氏と無事に旅を終えることができたので祝杯をあげる。お腹いっぱいになってお店から出ると、すっかり陽が沈み、たくさんのクリスマスのイルミネーションが点灯していた。  暗闇の海を眺めながら、うねりの彼方に霞んで見えた六甲山の山並みに向かってまた旅の続きがしたいと思った。後日Qタロウ氏から次の海旅のプランがメールで伝えられた。Qタロウ氏から、六甲の山並みを見ながら神戸へと旅を続けましょうというものだった。Qタロウ氏に感謝。次の旅への期待に胸がふくらむ。

大阪運河ツアー堂島川~南港~尻無川2005-11-19

澄み切った秋空にそびえ立つ巨大ビルは、波や風に削られた断崖の迫力に匹敵する。カヤックにのんびり浮かびながら眺める一つ一つのビルも、車や人の騒音に満ちた大通りから見えるビルの表情とは違う。現代テクノロジーの粋を集めたビルは、手つかずの自然が残された知床とは対極の美なのかもしれない。 堂島川沿いには、江戸時代からの豪商の名前のついたビルや倉庫などが立ち並ぶ。右に大阪フェスティバルホールのビルが現れた時、高校大学時代のジャズコンサートに夢中だった頃のことがよみがえる。 堂島川は大阪湾に近付くにつれて川幅を大きくする。高層ビルは姿を無くし、かわって倉庫や工場、市場など港らしい景色になる。空気は澄み切っていて、やがて六甲の山並みも眺められる。USJの前を素通りし、天保山大橋をくぐって海遊館を目指す。USJと海遊館を結ぶ連絡船の乗客が手を振ってくれるので、振り返す。 そろそろお昼近い時間で、どこか上陸したいなと思うが適当なところがない。これは知床の海岸線よりもハードかもしれない。やっと陸に上がれば、ヒグマではなくガードマンがやってきて、「トイレだけですよ。」と注意される。海遊館の隣はこれまた大阪水上警察署で、まったく落ち着いていられないのだ。 いよいよ大阪港に出ると、巨大な船が頻繁に行き交っている。澪つくしのマークがある建物は、大阪税関である。国際都市の玄関港という雰囲気である。こんな小さな船でうろついていていいのかと、ちょっと緊張である。 観光船サンタマリア号とすれ違う。コロンブスのサンタマリア号を実物の2倍のスケールで復元したものだそうだ。本物はこの二分の一の大きさだとすると、案外小さくて親近感が湧く。こんなもので大西洋を横断して新大陸を発見したんだから、大した人である。 やっと上陸できるところを見つけ、昼食にする。六合村に電話してみたら、強烈に寒くて、外は雪が舞っているらしい。こちらは居眠りしてしまいそうなくらい日差しがあたたかくて気持ちいい。 この時期日が暮れるのが早いので、そうのんびりはできない。1時間ほどの休憩で、尻無川を道頓堀方面向けて遡る。どうやら干潮らしく、運河は川になっていた。手を休めると下流に流されてしまうので、のんびり漕いでいくわけにはいかない。潮を計算に入れて計画を立てると、快適なツアーになるんだなあと実感する。 尻無川防潮水門の手前に、大阪市営の渡し船があった。観光ではなく、生活の足として、橋を建設するより割安だからと運営されているらしい。橋の代わりだから、もちろん乗船料は無料。大阪市には行政改革の嵐が吹き荒れているようだけど、こんなサービスは将来どうなるんだろうか。 出発地の桜ノ宮まで戻ると日が暮れそうだったので、中之島のバラ園に着岸してゴールとする。自然ではなく人工物の中を漕ぐ大阪運河ツアーは、かなり面白い。きっと運河は、ゴミだらけで悪臭が漂っているのではないかと懸念していたけれど、そんなこと無かった。この続編はぜひ計画する価値がある。

山の雨と海の風

 本棚に浦松佐美太郎の「たった一人の山」という文庫の本があった。自分でもいつ買ったのか忘れてしまっていた。わずか200円の定価がつけられていて、カバーに鉛筆で130と書いてあるところから、私はそれを130円で手に入れたようだ。1975年の版なのでかなり日に焼けていて、安っぽく感じられる。しかし開いてみると、題名から想像する期待に背かなかった。1901年生まれの浦松氏は、1929年前人未踏のアルプスのルートを攀じ、自らアルピニズムを実践して日本にアルピニズムを紹介した偉大な登山家である。本の題名にもなっている「たった一人の山」や「頂上へ」などアルプスの山々の文章が読み応えがあるという人が多いかもしれないが、私はそれよりも「冬の山々」や「銀線を描く」、「雪」などの随想に惹かれた。特に「山の雨」には私の心にしみた文章があった。 「雨は山へ登るものにとっては、嫌なものに違いない。幾日も、雨に降り込められているときなぞ、また今日も雨かと、うんざりしてしまうものだが、思い切っていらだたしい気持ちを抑えてしまえば、全く違った境地に立って、山を静かに眺めることができる。 雨の音しか聞こえない。そんな静かな日に、滴する谷の緑を眺めていると、旅のあわれとでもいうような、かすかなさびしささえ心に感じる。山水という、言葉のニュアンスが、心に近近と味わわれる。 山水という、いかにも、床の間の中にでも納まってしまいそうな、この優しい言葉から受ける感じは、燃えるような、日の光の中に立つ山の姿ではない、霧に霞み雨に煙る山の姿である。 こんな風に考えてくると、登るときにはやっかいなこの雨も、山にとってはふさわしいもののようにさえ思われる。山と雨と、山へ行く誰しもが、この二つに結んで、いろいろの思い出をもっていることと思う。まして自分でも、雨男と思うくらい、雨に出会っている私には、山の思い出をたどっていくということは、今一度、雨の中をくぐってゆく心地がする。」以上抜粋 小屋の軒下で、冷たい雨の滴をよけながら、これからまた帰り道をびしょ濡れになって進まねばならないあのやるせない気持ちも、今となっては懐かしい心地よさとして突然よみがえってきたりする・・・  海だったら何だろう・・・ シーカヤッキングで一番厄介なのは風だろう。雨が降っていたって風がなければ楽なもんだ。晴れていたって風が強ければ海には出られない。知床で体験した気まぐれな風には、心身ともに痛めつけられたもんだ。しかし私たち旅人は悠長なもんだ。漁師は命を張って大自然の猛威に向き合い、仕事をしなければならない。 有島武郎の「生まれいずる悩み」の中に出てくる、冬の海の岩内の漁師たちの姿は凄いの一語につきる。生きるためといっても、今の世の中だったら考えられない地獄だと思った。 「雪のために薄くぼかされた真っ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つようにちらりちらり白い波頭が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増していった。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫を波の方へ向けることもしないで、力無く漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思い切り背伸びした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりをうってどうとくずれこんだ。 はっと思ったその時遅く、君らはもう真っ白な泡に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして転覆した船体にしがみつこうともがいていた。」       シーカヤッキングでこんな風に出遭ったらひとたまりもない。風が強く吹く日は、陸でひたすら風が止むまで待つのだ!

1997年2月の芳ヶ平

 志賀草津道路は11月の中旬から4月の下旬まで冬季閉鎖になる。厳冬期、2000メートルの高所を通る区間は、相当厳しい気象である。弱い冬型の気圧配置の日でも、二月初旬の山田峠は、体重75キロの体が簡単によろけてしまうくらいの風が吹く。吹き溜まりはかなりの積雪になり、過去に雪崩の記録もある。その上ガスも発生しやすいので、車で通り過ぎる人から見れば大した事のない峠なのであるが、冬は昔から遭難が多いのだ。志賀草津周辺のスキーツアー解禁が3月1日と決められているのは、このような事情があるからなのだろうか。   志賀方面へツアーするときは、私はいつも六合村から入山する。鋼管休暇村の長い林道を歩き、関東ふれあいの道というハイキング道沿いに芳ヶ平を目指す。一度ウサギを追う猟師たちと出会った事があるくらいで、雪のある時期はまず人に会うこともない樹林の中の静かなコースである。リフトやゴンドラを利用していっきに高度を稼げば楽だが、のんびり歩いて登るのもいいものだ。でも今回は、某スキー場の最終リフト降り場から歩き始めるという楽な手段をとってしまった。 今冬は少雪の年のようだ。まだ2月初旬だが、あまりにも少なすぎる。去年の半分の積雪だ。芳ヶ平から先の雪の状態が心配だった。約1時間、志賀草津道路を歩いていつもの芳ヶ平へ滑降する尾根の突端にあたる地点についた。志賀草津道路の最高地点からの急斜面も良いが、この時期はやはり雪崩が怖い。尾根コースならば安心だ。このコースは、心地よい斜度が一定に続くなかなか魅力的なコースである。今まで何回も滑っているが、雪質も良い。 ところが今回はそうではなかった。やはり少雪が原因か。日当たりが良く風の影響も受けやすい斜面は、かなり手ごわいモナカ雪で、幾度か転倒した。しかし今シーズンはまだ誰にもシュプールを刻まれてはいないであろうこの処女雪の斜面に自分一人のシュプールを刻むのは、いくら転倒しようとも爽快な気分が残った。 芳ヶ平に降り立つとガスも晴れて、無人の雪原を小屋に向かって進んだ。小屋は夏季も管理人が入らなくなったようで、なんとなく寂れた雰囲気が漂っていた。渋峠から草津へ抜けるコースには、一本のシュプールが残されていた。ここからはやっとこさ滑れるくらいの雪しかなく、六合村へ降りるのをやめて、草津へ降りることにした。

芳ヶ平ヒュッテのフロール

1999年1月  芳ヶ平ヒュッテが新しく改築され、そこにこれまた新しい管理人御夫婦が1年中住むという噂を耳にしていて、今回少しどきどきしながら芳ヶ平へスキーツアーに仲間と出かけた。林道を小一時間ダラダラ歩きした後にいよいよ山深く入っていくと、だんだん森の雰囲気が良くなってくるのだ。  例えば、平兵衛池の手前の辺りや大平湿原の入口、私たちの仲間内だけで呼んでいる通称おむすび山が望める大平湿原、そしてもちろん芳ヶ平周辺とどこも心が洗われてくるような素朴な景色なのである。初めて連れてきた仲間2人も、後日その時の感動をメールで送ってくれた。私はもう8年もこのコースに通い詰めているが、飽きるということがない。  ところで平兵衛池にはある伝説が伝わっている。こういったものはたいがい不思議な話が多いのであるが、平兵衛池の伝説もなんと言ったらいいかわからない不思議な話である。しかし実際そこへ訪れてみると、そんな不思議な伝説があってもおかしくないような雰囲気なところなのである。 どのような話かというと、「昔々草津の湯本平兵衛という者に美しい一人娘があった。蝶よ花よといつくしまれて育ったが、もう年頃になったある年のこと、山の雪もようやく消えて草も木も一時に芽を吹いた明るい春の一日、両親の許しを受けた娘は、待女等をつれてワラビ狩りに出かけた。その美しい一行が山麓平兵衛池のほとりに来たとき、娘は何を思ったか突然岸辺へ走り寄り、丈の黒髪をとくよと見る間にするすると池の中へ引き入れられるよう身を没してしまった。はっと気のついた待女等は顔色を変えて周章狼狽したけれど、如何ともすることができずただ呆然としていると、池の水がにわかに湧き立ち、娘は突然龍となって現れ、やよ聞け、私はこれよりこの池の主となるべし。何事も因縁であり、いたずらに悲しむことなく、夙く帰ってこのことを両親に伝えよ。と再び池の底深く姿を消した。」というものである。いかがでしょうか。  おむすび山を登り上げ、いよいよ芳ヶ平に足を踏み入れようとしたとき、突然ワンちゃんが現れて私にさかんに吠えてきた。仲間はまだずっと後ろの方で、あまり動物が得意でなかった私は、警戒態勢に入った。本当に今から思うと情けない話であるが、動物は逃げれば追ってくるという習性があると知っていたので、とにかく威嚇した。相手が50メートルくらい離れているのに、大きな声を出したり、ストックをたたいて音を出したり遠くから見ている人がいたらさぞ滑稽だったろう。しかし私は北海道のヒグマと出会っても同じようにするであろう真剣さで、対処していたのだ。するとどうだろう、後から来る仲間は全然恐れないでこの吠えまくるワンちゃんを招き寄せるではないか。とたんワンちゃんは吠えるのをピタリとやめてじゃれついているのである。なんだなんだ。今までの私はなんだったのだ。急に恥ずかしくなってしまったが、気を取り直してとりあえず自分にもじゃれついてくれないかと今度は甘い声で招き寄せてみた。やはり私に対しては心からじゃれついてくれなかった。  このワンちゃんは芳ヶ平ヒュッテの大事な家族の一員であった。管理人さんが、もしわたしのこの有様を一部始終見ていたとしたら、本当に恥ずかしい。そしてこのワンちゃんがますます私になついてくれる様子を見るにつけ、自身の動物観の貧弱さをあらためる必要があるという反省の心がわき上がってきた。なぜかムツゴロウさんの顔が浮かんで偉大だと感心した。 この可愛い可愛い犬は、フロールだ。管理人さんはそのうちインターネットでフロール通信というのを始める予定だそうで、将来は人気者間違いなしだろう。今度芳ヶ平を訪れたときは、もう決して吠えないでね。そして私のところへ一目散に走り寄り、クンクンとじゃれついてね。 管理人夫婦は気さくな方だった。シールを忘れてもうこれ以上進むことができなくなった仲間に快く自分のシールを貸してくれた。おかげで全員が池ノ塔山のてっぺんからの楽しい滑降を堪能できた。  滑降後ヒュッテででゆっくり休憩させてもらった。この冬の初めてのツアースキーヤーだったようだ。休憩料は一人300円。この雪の原野の中で、ひとときのくつろぎの空間に対する見返りとしては、当然ではなかろうか。ゆっくりしているうちに、外は濃いガスが立ちこめてきたが、勝手知ったるところなので気楽に帰途についた。予想通り1時間半ぴったりでボトムに下山した。

フカフカ落葉の里山ライド2023-11-22

天狗様が祀られた岩尾根の突端に向かいました。今日も風がなく穏やかな小春日和に恵まれました。ポカポカと暖かい陽射しが気持ちいいです。 谷川連峰から白砂山、さらに大高山、赤石山、横手山、草津白根山、四阿山、そして浅間山とぐるり県境稜線の山々が絶景です。 横手山の渋峠スキー場はオープンできそうなくらい真っ白に輝いていました。 さらに浅間山も見事に白化粧していました。 森の木々の葉っぱはすべて枯れ落ちてフカフカです。陽ざしを浴びた枯葉の香ばしい匂いに満ちていました。 ハンドルとペダルから大地の鼓動を感じながら、全身に冬の日の気持ちいい風を浴びて、落ち葉のフカフカライドを満喫しました。