カヤック

奈良俣湖カヤック初漕ぎ2025-6-17

今冬の大雪の影響を大きく受けて、ダム湖解禁も例年より2週間くらい遅くなったようです。こちらの都合もなかなかうまく日程が組めず、2025シーズン初漕ぎはいつの間にか6月半ばの夏至近くになってしまいました。 下界では今日も猛暑日のようで、梅雨入りしてから日もたっていないのに中休みの晴れの日がしばらく続きそうです。大石沢のバックウオーターにはまだ大きなスノーブリッジが残っていて、冷気がうすい霧となって漂い幻想的でした。 前線の影響で朝のうちは北風が少し強く吹いていたので、奥利根湖はやめて奈良俣湖を選んだのですが正解でした。高い山は雲に覆われて見えませんでしたが、やがてスッキリと姿を現すようになる頃風も収まりました。 4月のバックカントリーツアーで至仏山から眺めた奈良俣湖や谷川連峰の景色を思い出します。あれからわずか2か月しかたっていませんが、季節の移ろいの早さに改めて驚かされます。日本が四季のはっきりした自然豊かな国であることも実感します。 6月の奈良俣湖は、緑の楽園です。森も湖水もすべて緑です。エゾハルゼミが大合唱する中で、アカショウビンの高い鳴き声も聴き取れます。山ツツジやナナカマドの花もポツンポツンと見つけることができました。 本流バックウオーターでは、大きな鯉の恋の季節でした。ドボンドボンと激しく飛沫を上げて雄が雌を追いかけていました。雪代が多いのか満水状態の湖畔は、何とか一ヵ所上陸ポイントを見つけることが出来ました。 お昼近くなると、雲一つない青空に恵まれました。湖面にはからりとした涼しい風が時々吹き渡りなんと気持ちいいことか。 出艇場所のキャンプサイトでは時々カエルの鳴き声が聴こえてきました。水辺の樹々に目を凝らしてみると、いくつかモリアオガエルの卵塊がありました。緑の6月は、もっとも命輝く季節でもあります。

BIKE&KAYAK 琵琶湖

2011年 11月2日 晴れ 信州の山奥の廃村にかつてあった棚田を復活させるために、築100年以上の古民家に移住する泥兎氏(かつては雪兎氏だったが・・・)を訪ねた。苦労するも泥兎氏自慢の開墾した田や畑、小道や水道などを案内してもらう。そして長い夜は、久しぶりの再会で楽しいおしゃべりは尽きない。囲炉裏で焼いたごちそうの五平餅は、なんとこの秋に初収穫した棚田の新米だ。さらにお風呂も、わざわざ薪で沸かしてもらったお湯という贅沢さ。 翌朝も天気は素晴らしく晴れて、鹿島槍から白馬三山までの稜線がスッキリと眺められた。気分がいいので、朝食後、泥兎氏夫妻が自家焙煎のコーヒーとアップルパイがお勧めだという、大町市のカフェまでサイクリング。 自家製アップルパイはボリューム満点で、二人で1つをいただいた。古いスキーを使ったインテリアは、春の雪倉岳や朝日岳の楽しかったスキーツアーが想い出される。お世話になった泥兎夫妻とお別れして、午後は初冬の雪倉岳を眺めにチョコっとツーリング。 紅葉に彩られた秋の山も過ぎ、純白になる厳しい冬を前に何も身にまとわずスッキリとした山容の雪倉岳が、ひっそりと静かに眺められた。温泉は、富山県朝日さざ波温泉、車中泊は北陸道SA有磯海。 11月3日 晴れ 滋賀県彦根市r2~長浜市r331~道の駅湖北みずとりステーションr44~木之本R8~塩津R303~大浦r557~海津r54~今津r333~高島市道の駅しんあさひ風車村 翌朝、北陸東海縦貫道を経由して名神高速道彦根インターまで移動。午後12時半に多景島や竹生島への観光船が発着する彦根港をロードバイクでスタート。なんとなく反時計回りだ。休日の琵琶湖の道は、サイクリングを楽しむ人がほんとうに多い。道も平坦で走りやすく、景色もいいし、キャンプ場や公衆トイレのある施設が適度にあって、ツーリング環境は申し分ないと感じた。 琵琶湖の水面を身近に感じながら走っていて、一番強く感じたことは水に恵まれた豊かな土地だということ。琵琶湖に注ぐ無数の河川や湧き水と肥沃な水田が、歴史と文化を育んだことは当然だろう。そして、琵琶湖に生息する水鳥の多いことにも驚いた。車通りの多い道端からでも、大小様々な水鳥が群れている姿が観察出来た。 11月3日文化の日は、各場所で様々なイベントを通り過ぎる。長浜市は、大河ドラマ「江」ゆかりの地。秀吉の居城だった長浜城、合戦跡の賤ヶ岳など快調に通過、ところが塩津で県道512号線の奥琵琶湖パークウエイの入り口を見落とした。おかげで楽はしたけど、琵琶湖岸をパーフェクトに1周出来なくなってしまい、ちょっと心残り。 その後は、注意深くナビゲーションして、午後3時半ぴったし、高島市の道の駅しんあさひ風車村を今日のゴールにする。本日の走行距離約70km。移動平均速約22km。本日の温泉は高島市朽木のてんくう、車中泊は道の駅くつき本陣。 11月4日 晴れ 道の駅湖北みずとりステーション付近~奥琵琶湖~竹生島~海津大崎 昨日、自転車でカットしてしまった奥琵琶湖パークラインからの心残りの風景を確かめるべく、今日はカヤックツーリングだ。道の駅みずどりステーションでフェザークラフトのK1を組み立てていると、すぐ隣にある環境省施設の職員の方から、ちょうど飛来している雁に刺激を与えないようこの付近から出艇しないでくださいと声をかけられる。あの「大造じいさんと雁」の雁である。ということはシベリアからの冬の渡り鳥にちがいない。たしか雁のリーダー残雪はそうとう頭が良くて仲間思いだった。。職員の方の話ぶりから雁はそうとう大事にされている水鳥のよう。組み上がったカヤックはもちろん車の屋根に載せて移動。近くの片山トンネルの入り口付近から出艇した。 天気予報では全国的に快晴のはずだったけど、琵琶湖はやはり盆地の中の大きな湖という特殊な地形のためか、湖面は朝から濃い霧でいつになっても晴れる気配無し。カヤックから賤ヶ岳を仰ぎ見てみたいと思ってたけど視界無し。でも幻想的な雰囲気でよかったかも。 奥琵琶湖パークラインのつづら尾展望台がある小さな半島の岸にカヤックを着けて、早めのお昼にする。この半島の先端から竹生島までは2kmしかなく、島渡りするのに一番距離が短い。今日は風も弱くほとんど凪ぎ状態なので、島を回って海津大崎まで漕ぐことにする。 ここまで漁をしている漁船1隻と、ブラックバスを狙ってるモーターボートの釣り船2隻とすれ違っただけ。のんびり竹生島に近付いてカヤックからお寺や神社を眺めていたら、突然島影から観光船が港に入ってきたのにびっくり。ちょっと焦った。 海津大崎までのんびり漕いで、大崎観音の近くの浜でカヤックツーリング終了。サポートの家内にピックアップしてもらい、高島町朽木のてんくう温泉へ。車中泊は、道の駅くつき本陣。 11月5日 曇り後雨 高島市道の駅しんあさひ風車村r333~萩の浜R161~道の駅琵琶湖大橋米プラザ~大津港r18~r102~石山r559~近江八幡市r25~彦根市 一昨日のゴール地点である道の駅しんあさひ風車村からスタート。今日もやっぱりどんよりとした朝で、湖の景色はぼやけていたけど、白ひげ神社の鳥居あたりで雲間から朝日が射しだした。 国道161号線は交通量が多くチョッと走りにくいけど、ほとんど平坦な道なのでなんと快適なことか。朝の6時半頃出発して、途中琵琶湖大橋のたもとの道の駅に寄り道休憩して、9時頃琵琶湖の南端の瀬田の唐橋を通過、今度は琵琶湖東岸を北上。通称さざなみ街道といわれる県道559号線は、まさに自転車にとって快適な道。だんだん空が怪しくなってぽつりぽつり降ってきそうな気配のする中、1周のゴールである一昨日のスタート地点、彦根市の彦根港を目指す。 ちょうどお昼の12時きっかりに到着。一昨日は12時半にここをスタートしているので、琵琶湖は1日で1周できるちょうどいいコースだと実感。いつか時計回りでまた走りに来たいところだ。 本日、温泉無し、車中泊無し。

粟島シーカヤック横断&キャンプ2009

2009年8月15~16日 粟島へは2度目のシーカヤック横断である。夏休み残り2日をどう過ごすか思案した末の選択だった。数日前の飛島横断の後味の良さもあったのかも知れない。それに、何しろお盆だからどこへ行っても人だらけに違いない。粟島には立派なキャンプ場があるけれど、大海原をわざわざ漕いでキャンプする人間はまずいないだろう。お盆の日など温泉宿に空きがあるはずもなく、自然な成り行きで今回のプランが実行されたのだった。 群馬の自宅を出たのが朝の5時過ぎ。お盆の割には1000円高速が空いてて、新潟県の北の端、山北町府屋に辿り着いたのが9時半過ぎ。天気予報通り海はベタ凪そうである。粟島もすぐ手が届きそうな距離でよく見える。大急ぎで出艇準備をしなければならない。K2は家で組み立てておいたので車の屋根から降ろすだけだけど、2人分のキャンプ道具や様々なものをカヤックに積み込んだり、車の駐車場所を確保したりでてんやわんやである。どうにかこうにか海に浮かんだのは10時をとうに過ぎる。午後になると風が少し強まる予報が出ていて不安もあるけれど、GPSの距離表示では24,5kmだ、安定感のあるK2だから多少荒れても漕ぎきれるだろう。いよいよ海に浮かぶ。 今日も進路はほぼ西。粟島を目指してひたすら漕ぐのみ。お昼過ぎ、右の彼方に白い船影。飛島でも遭遇した北海道航路の大型フェリーに違いない。3日ぶりの再会である。こんな大海原でまた逢えるなんて。たぶんこちらのことはわからないのだろうな。 粟島に近付くにつれ風が強くなり、白波が立ち始める。うしろから突然クルーザーが追い抜いていく。若い男女が乗っていて手を振ってくれるので、こちらも返す。大きなエンジン音を響かせながら、みるみる粟島の向こう側へ消え去った。 直接キャンプ場のビーチに上陸。早速テントを設営して温泉へ直行である。 温泉の後、レストランで夕食。昼食はカヤックの上でバナナとかドーナツだったので、上陸後の大きな楽しみ。日替わりの刺身定食は、さすが粟島である。 まだ日が暮れなくて、渡ってきた向こう岸の山々がテントから眺められた。 翌朝、のんびりキャンプを撤収。島の南端をツーリングして港に戻りカヤックを折り畳んで11時の高速船で島を立つ。高速船だと1時間弱。岩船港から村上駅まで乗り合いタクシー。村上駅から電車で府屋駅へ。2時半過ぎに車を回収し、粟島シーカヤック横断&キャンプ終了。

シーカヤック飛島横断(全漕行距離約75km)

2009年8月11~12日 1日目 なんとなく飛島へ引き寄せられた2009夏の海旅。いつも鳥海山スキーで山頂から日本海に浮かぶ飛島を眺めて、その度にカヤック漕いで行ってみたいなぁと思っていた。どこへ行っても混雑するお盆休みの限られた日数でさてどうしたものか・・・実は決行直前まで、事前の計画や準備がまったく出来ないで、行き当たりバッ旅な飛嶋横断でした。 離島の海旅はやっぱりフォールディングカヤックがいい。もし帰りの日に海が少しでも荒れたら、無理せず折り畳んでフェリーの手荷物にして戻ってくればいい。そう考えられると気が楽である。一人旅ならK1である。もうかなりくたびれてきているけど、これまでいろいろな島をこのK1で旅してきて信頼している。大海原に浮かんだら一心同体、まさに命を預ける唯一の相棒だ。朝の6時から急いで組み立てを初めて、なんとか8時前に出艇することが出来た。飛島はキャンプ禁止の島だけれど、いざというときのために、はたまた気が変わって陸沿いに男鹿半島を目指す旅に変更したとしてもいいように、キャンプ道具や2~3日分の水・食料も積んだ。 今日は飛島がはっきり見える。漕ぎ出した象潟の海は穏やかである。これから潮流や風の影響がどうなっていくか不安である。GPSで計った直線距離はぴったり30km。時速5~6kmで漕ぎ続ければ5~6時間でゴールできるはずである。沖合10kmくらいまで漕いだら、最終的に行くか戻るか判断しようと決める。そこで気象条件的に難しくないか、体力的に余裕があるかなどをチェックする必要がある。 シーカヤッキングの旅は、海を歩くようなものである。陸沿いを漕ぐときは少しずつでも景色が変わっていくけれど、島渡りでは1時間も漕いでようやく陸が小さくなったとか大きくなったとかわかるくらいだ。今日は視界がよいので、目標物をひたすら目指して漕ぎ続ける。ナビゲーションは楽である。デッキコンパスはほぼ西。GPSもちゃんとほぼ西を指している。もし視界がなかったら、デッキコンパスとGPSが強い味方となる。途中海上ですれ違った漁師さんのアドバイスでは、潮流は右から左に流れているという。どれくらいの強い流れかわからないので、気持ち右向きに進路を向ける。あとからGPSの軌跡を確かめてみると、なるほど前半部分で少し南に流されて、後半部分で意識的に修正していたことがわかった。 長距離のパドリングでは10kmをひと区切りとして漕ぐ。シーカヤックで10kmという距離感覚は、ロードバイクだと50kmだろうか。山スキーのシール登行だと、標高差300mの膝下ラッセル? いずれにせよ最初の10kmの距離感覚で飛嶋横断30kmの感覚をつかみたい。しかしパドリングは単調なものである。GPSの表示を観察していると、だいたい5~6回のパドリングで10mすすむ。計算すると50~60回で100m、500~600回で1kmである。30kmなら15000回から18000回のパドリングが必要というわけだ。だけど、パドリングの回数なんてすぐに飽きてしまって数えてられない。パドリングは力をうまく抜いて合理的に漕いでいると思っていても、疲労度に合わせてフォームが自然に変わってくる。パドリングに疲れてくると、パドルの引きよりも押しに頼りがちになってくる。これまで1日50km以上の距離は何度も漕いでいるので、今回の30kmに不安はないけれど、とにかくこの自分の腕だけが頼りである。 10km地点で気象条件に大きな変化もなく、体力的にも問題がないのでそのまま漕ぎ続ける。半分を過ぎた頃だろうか、右手彼方に白い小さな船影。新潟~北海道航路の大型フェリーである。この大海原で衝突する確率はかなり低いはずだけれど、それぞれの航路の対角線上で交わりそうな気がするから不思議だ。だんだん近付くにつれ、相手はなんといっても高速で航行しているのだから、みるみる彼方の前方を右から左へと通り過ぎていった。一応こちらも船舶には違いないので、相手の航行の邪魔にならないようマナー意識はある。もちろん大きな船優先である。といっても、こちらは豆粒の大きさだから気付いてもらっているのだろうか。 恵まれた気象条件の航海であった。振り返ると鳥海山が雲に隠されていたけれど、どっしりとあった。パドリング中は一度も振り返る余裕がなかった。ところで島に上陸後、すぐ一仕事しなくてはいけない。今宵の宿を見つけなければ。お盆休みなので簡単には見つけられない。しかし駆け込んだとある旅館のおかみさんは親切で、となりの民宿を気持ちよく紹介してくれた。 飛島まで距離30.6km。最高速7,7km。所要時間5時間50分。移動平均速度5,4km。途中パドルを休めて休憩したのは約9分。 2日目 飛島1周~秋田県象潟・象潟道の駅~象潟海水浴場 昨日は宿が決まった後にまたカヤックに乗り込み、島の無人の浜まで漕いでシュノーケリングをして遊んできた。対馬海流にさらされているからだろう、透明度が高い。それに、メジナや黒鯛の大きなのが泳いでいたりする。宿の夕食は海の幸三昧。たらふく飲んで食べて、潮風が気持ちいい2階の大きな座敷ですぐにゴロンである。持参した新田次郎の剣岳点の記は数ページもめくる力もなく尽きた・・・ 宿のおかみさんは気を利かせてくれて、朝食の用意を6時半にしてくれた。おかげで7時過ぎには出航できた。島を時計回りに1周してから横断することにする。 昨日と違って今日はやや風が強い。うねりが少しある。向かい風になるので島の裏側に回るのは少し辛い。飛島は、島の裏側に南の海のリーフのような浅瀬が広がっている。大回りをしようとしたつもりがこの浅瀬に迷い込んでしまい、途中でカヤックを降りて引っ張らなくてはならなかった。そんなこんなで時間を食ってしまい、もう一度ゆっくりシュノーケリングをしたいと考えていたけれど、そのまま横断することにした。 しかし、今日は天気がいまいちで、一番の目標になるはずの鳥海山は雲の中である。昨日の好条件と違い、完全にデッキコンパスとGPSによるナビゲーション航海となった。ほぼ東に進路を合わせて漕ぐ。30kmのパドリングの距離感覚はしっかり体が覚えている。突然海が荒れ始めたとしたときの最適な状況判断を冷静に想定しながら漕ぐ。 パドリング中に目を楽しませてくれたのは海鳥達がカヤックのまわりを飛び回ってくれたこと。小さなトビウオが海面を跳ねたこと。象潟の港に近付いた頃、漁船が進路上の前方にいた小さなカヤックの進路上を追い抜いていく時に、優しく減速してくれたこと。心が和んだ。 黙々と一人漕ぎ通した。ただそれだけなのに、なんという充実感。2009の夏の海旅は、いつもとひと味違う海旅だった、

3.11震災の記憶 2011 バイク&カヤック 三陸

10月6日 曇り沼田R120~日光R121~会津若松~米沢R13~山形~天童~尾花沢道の駅尾花沢で車中泊。温泉は尾花沢市内の徳良湖温泉花笠の湯。 10月7日 曇り尾花沢R13~新庄~雄勝~湯沢~横手R107~北上R28~花巻R283~遠野 花巻では宮沢賢治記念館を見学する。宮沢賢治が明治29年の明治三陸大津波の年に生まれ、昭和8年の昭和三陸大津波の年に亡くなったことの奇遇、生前評価されなかった宮沢賢治だけど、外国からの評価はかなり早い時期からあったこと、辻まことの父親辻潤が宮沢賢治の詩を絶賛した文献が見られたこと・・・などなど、様々な発見がありかなり楽しめた。ただ以前読んで面白かった奥成達著「宮沢賢治、ジャズに出会う」に関連する文献に出会えなかったのが残念。それから遠野は、高校生の頃、みちのく一人旅で訪れたことがあったけど、その時の印象とはだいぶんかけ離れた地方都市の賑やかさにびっくりした。温泉は、踊鹿温泉、名前がなんか遠野らしくていい。車中泊は道の駅遠野。 10月8日 晴れ遠野R283~釜石R45~宮古市 直接宮古市に行くのではなく、釜石から海岸沿いの国道45号線を北上して宮古市の会場であるリアスハーバー宮古へ。釜石からここまで沿岸部の津波の被害の大きさを目の当たりにする。そして会場であるヨットハーバーもまだまだ津波の傷跡だらけである。港には沈んでいるヨットもあるし、建物はすべて壁も屋根もズタズタに壊れたまま。開会式は12時半からなので、自転車で宮古市内をチョッと散歩。魚菜市場を覗く。おいしそうなお魚が安い!今日の夕食が楽しみである。参加者のなかには浄土ヶ浜までカヤックでツーリングしている人もいたが、いちおう明日イベントで被災箇所を中心とした湾内ツーリングがあるので、海に浮かぶ楽しみはとっておく。 ところで、リアスハーバー宮古は、市内の2つの高校のヨット部の本拠地である。彼らの艇庫があり、その練習場所でもある。この日も天気に恵まれたので白い大きな帆が湾内を走り回っていた。震災の日も高校生達は練習していたらしいが、避難して全員無事だったそうである。しかしながら、立派な艇庫だったらしき建物は無惨な姿のまま。今だに更衣室もトイレも使えない環境のなかでがんばっているようだ。今回のイベントでもトイレはもちろん仮設トイレだった。開会式後、軍手とゴミ袋をもらい、清掃活動。150人以上も仕事をすると、さすがにあっという間にゴミの山が出来てしまう。優に10メートル以上はある木の枝に引っ掛かったゴミも回収していた。ここでの清掃活動はすでにもうほとんど片付けられたあとのゴミ拾いだから簡単だったけど、この後三陸各地を自転車で見て回って、津波直後の瓦礫の山など想像を絶する有様だったと思う。 清掃活動の後、会場を車で30分ほど離れたキャンプ場と温泉施設のある湯ったり館に移して津波の勉強会。途中魚菜市場で夕食の買い出しをしていく。勉強会では、モンベルの辰野勇氏、日本野鳥の会宮古支部長の佐々木宏氏、東大名誉教授の月尾嘉男氏のお三方の講演。辰野氏は、企業としての震災復興への関わり方についての話とさすがちゃっかりと浮くっしょんという新開発商品のPR。佐々木氏は、震災後すぐに三陸被害をくまなく自分の足で見て回り5月には「東日本大震災」を自費出版したそうで、地元の方だから語れる生々しい津波被害の実態の話。月尾氏は、東大名誉教授らしくとても学問的。今回の被害の実態から震災復興に向けてあらゆる角度から提言。神社やお寺が高台に立てられていて今回の津波でもほとんど被害を受けていないのは、昔からこの三陸の津波の恐ろしさは何度も繰り返されているからだというお話や、また人間が築いたどんなに堅牢な建造物も、津波には簡単に破壊されてしまうけれども、何万年も前からあるだろう自然の姿は津波をかぶってもびくともしないというお話など。いろいろ考えさせられました。 温泉は湯ったり館。車中泊はチョッと離れた道の駅やまびこ館。 10月9日 晴れ 午前 宮古湾内ツーリング 午後 浄土ヶ浜往復 漕行距離 20.2km 今日も朝から大快晴、海は凪。いよいよである。午前9時、開会式後、三陸の海にとうとうカヤックで漕ぎ出した。先導するモーターボートに138艇のカヤックが後を追う。まずは震災で犠牲になられた方々に、宮古港の前に全員が集まって黙祷。そのあと宮古湾を時計回りでのんびり漕ぐ。 海上自衛隊の巡視船が私達のために歓迎放水を見せてくれる。 カヤックを漕ぎながら、海に向かって逆三角形に大きく広がっていく奥深い湾であるリアス海岸独特の地形を実感する。天然の良港として栄えるのはまったく理にかなっているが、津波が押し寄せた時はそれがまったく裏目に出てしまう。昨夜の津波の勉強会でも考えさせられたけれど、これからはもっともっと自然と上手に共生していく方法を考えて、またいつやって来るかわからない大津波に備えられる復興を実現して欲しいなと思う。シーカヤッカーも、今まであまり津波のことは現実の問題として意識せず海を漕いだり、海岸近くでキャンプをしたりしていたかもしれない。しかしこれからは、津波に対する危機管理を当然意識せずにはいられなくなったと思う。 ツーリング終了後、配られた復興弁当と秋刀魚のすり身がたっぷり入ったサンマ汁のお昼を食べて閉会式、解散。私達はこの際せっかくだから午後もカヤックツーリングにでることに。お昼になって風が強く吹き始め、海上には白波が立ち始めてたけれど、たぶん夕方にはまた凪の海になるだろうと予想して浄土ヶ浜へ向かう。 閑散とした浄土ヶ浜には一人のダイバーの方がいて、浄土ヶ浜の海底に沈んでいる瓦礫の清掃活動をされていた。地元の方で、一見美しい景色だけれど、海底にはまだまだたくさんの瓦礫が沈んでいるんですと話していた。たくさんの大きな重機やダンプで瓦礫処理をしている光景とはまったく対称的に、たった一人でひっそりと肌寒い海に潜っている姿にちょっと胸が熱くなった。 温泉は、岩泉のホテル龍仙洞愛山。車中泊は道の駅いわいずみ。明日からは自転車で三陸海岸を走って、復興している三陸の姿をこの目で見たい。 10月9日 晴れJR八戸駅R45~JR種市駅~岩手県道の駅久慈 走行距離66km 道の駅いわいずみから北山崎に寄り道して青森県洋野町のJR種市駅へ車移動。自転車初日は、JR種市駅からJR八戸駅まで輪行移動して、いよいよ八戸から三陸海岸を石巻まで自転車旅。八戸から種市までは家内も自転車を漕ぐ。種市からは家内に車でサポートしてもらって本日久慈まで。 北山崎は閑散とした雰囲気。津波の被害はまったく受けていなくても、三陸に観光客が激減したのでそのあおりを受けてしまっているのだ。今、三陸の観光産業は、以前の元通りの姿に復興する時をじっと耐え忍んでいるのだ。 家内も自転車にたまには乗りたいだろうから、JR種市駅に車をデポして、自転車を輪行にしてJR八戸線で八戸へ。ほんとうは久慈から輪行したかったけど、震災により種市~久慈間は不通のままだから仕方ない。JR八戸駅には、駅構内に図書館があるのがいい。震災関係の本を見たりした後、自転車で走り始めたら家内のMTBにアクシデント。自転車の組み立てでうっかりチョッとした間違いがあったようで、無理にペダルを漕いだためチェーンがねじれて壊れてしまった。駅近くの自転車屋を探して修理してもらうのに時間をロスしてしまった。そのため楽しみにしていた八食センターでのお昼も遅くなって午後2時半過ぎになってしまった。忙しくお昼を済ませて八戸の市街地を国道45号線で種市へ。沿岸部を走る県道1号線でウミネコ繁殖地で有名な蕪島や種差海岸を見たかったので、今回は残念。 ひたすら45号線を種市目指して漕ぐ。八戸市は内陸部なので津波被害の様子はわからなかったが、列車の車窓から見た住宅地の様子では、一般家庭の家の庭に仮設トイレが置いてあるのが目立ったのは、電気、ガス、上下水道などライフラインに大きな影響があったのかもしれない。道の駅はしかみを過ぎると、岩手県洋野町に突入。そして洋野町にあるJR種市駅で、家内は車のサポートにまわる。今度は独りで国道45号線を飛ばしてさらに南下。途中小さな川を通り過ぎるたびに橋の上から川を覗くと、サケの遡上する姿が見られた。もちろんほとんどの橋は津波にやられて補修中である。久慈の市街地に入る手前で完全に日没。夜道を走って道の駅久慈で本日Finish。温泉は山根温泉ぺっぴんの湯、車中泊は道の駅久慈。 東日本大震災市町村別被害状況 (社会データ図録東日本大震災被害状況資料より引用)青森県八戸市 死亡者1人 行方不明者1人    津波で広範囲で浸水、住宅約650棟が全半壊岩手県洋野町 死亡者0人 行方不明者0人   住宅20棟や多数の漁船、JR八戸線鉄橋が流失岩手県久慈市 死亡者2人 行方不明者2人 石油備蓄基地で屋外タンク4基破損、大規模火災も 10月10日 晴れ岩手県道の駅久慈r268~小袖~道の駅のだR45~普代r44~黒崎~平井賀~道の駅たのはたR45~小本~田老~宮古市リアスハーバー宮古走行距離126km 早朝道の駅久慈をスタート。さすがに朝晩は冷え込む時期なので、何を来て走るか悩む。だんだん日が昇って温かくなることを期待して、ちょっと風の冷たさを感じながら夜明けの小袖海岸を走る。道路のいたるところに津波の傷跡が残っていたり、道はほとんど補修中といったところ。今回はいつものロードバイクではなくて、34年前のブリジストンユーラシア。ツーリング用のタイヤなのでスピードは出ないけれど、悪路でも安心して走ることができるのがいい。小袖の集落で道を間違えて漁港の中に迷い込んでしまった。海から帰ってきた漁船が朝の水揚げをして活気が感じられた。来夏はきっと海女漁も元の通り復興して欲しいと願う。小袖からは山道の急な登りをひたすら漕いで国道45号線の道の駅のだを目指す。登校途中の小学生が元気に挨拶してくれる。 海岸部に出ると野田村に入る。津波で小石のように流されてあちこち砂に埋もれたテトラを、砂浜に大きな重機が入って掘り起こし回収していた。とても人間には出来ない作業である。この後いたるところでダンプやユンボなどの大型工事車両が瓦礫処理をしていたが、物資を運ぶトラックとともに大型車両は大変な活躍である。そんな大型車両が行き来する復旧して間もない道を、復興の邪魔にならないよう自転車で走らせてもらう。国道45号線に合流して少し久慈方面に戻って道の駅のだで朝食休憩。道の駅のだは、三陸鉄道北リアス線陸中野田駅の駅前にある。私が到着するさっきまで、駅には通学の高校生でごった返していたらしい。震災以前はこれほどの混雑ではなかっただろう。なぜなら震災によって陸中野田駅は、中間駅から始発駅になってしまったから、きっと広く周辺から久慈の高校へ通学するために集まってくるにちがいない。 野田から45号線を海岸沿いに走って普代村に入る。45号線はここから海岸段丘の内陸部になるので、沿岸部を走る県道44号線を走る。しかしすぐに通行止め。仕方なくとんでもなく急な登り坂の迂回路に回って黒崎で県道に戻って黒崎灯台へ。国民宿舎は営業しているようだけど、なんとも閑散とした雰囲気。昨日の北山崎もそうだったけど、観光客が激減して活気がないように感じられた。…

小笠原シーカヤック・母島一周1998

12月29日 東京・竹芝桟橋を午前10時30分に出航した小笠原丸は、一路父島へ向けて南下した。今回の旅の道づれには新たな仲間が加わり、母島一周は三人でやることになった。この新たに加わった仲間は、シーカヤック初心者だけど、二人だった父島一周の時より心強い。しかしどうなることやら。初めての海は、不安がいっぱいだ。 12月30日 午前10時半、予定より1時間早く父島に到着。これで船旅が終わったわけではない。12時30分母島行きの船に乗り換え14時30分にやっとのことで母島に上陸する。昨日午前4時半に自宅を出てから実に34時間もかかったのだ。文句なしに日本一遠い場所である。これだけの長い船旅に耐えられるかどうかが、まずは小笠原を旅するための大前提となる条件なのだ。民宿ママヤにお世話になる。 12月31日 1998年の大晦日、午前八時過ぎに元地の前浜から出航する。前夜のミーティングで、ママヤのご主人折田さんから島の海の様子についていろいろ教えていただいた結果、反時計回りで一周するのが良いということになった。難所は南崎と北端の乾崎だ。どちらも潮流がきつく波も立ちやすいそうだ。折田さんは、宿の若い者を昼頃見張りにやると、親切にも私たちのことを心配して下さり、恐縮する。午後一時までに乾崎をかわすことが出来なければ北港に上陸し、一周は断念するということにした。 父島の時と比べて海は穏やかだった。冬型の気圧配置がこれから強まるという天気予報で、本州の方では西風が強いようだったが、1000キロ離れた母島に影響がでるのは明日以降らしかった。なんと運の良かったことか。さて、昨日まではいくら大きな客船でもただの乗客だったが、今日は違う。大波がくれば木の葉のように翻弄される豆粒のような船といえども、船長なのである。身動きがとれない小さなデッキに縛り付けられるように座っていても、心は大空を飛ぶ鳥のように自由である。快調に南崎へ向かってパドリングする。しかし、南崎は案の定潮の流れが速く、波が立っていた。進行方向と逆に流れていて、なかなか前進できなかった。波も大きく、ただがむしゃらにパドリングした。初心者の乗るベルーガは船足が速く、一番に難所を突破した。続いてK1の私が抜け、最後に父島を一緒に1周した相棒の乗るボイジャー415が私たちに追いついた。三艇がもっと近くにいなければいけないと思うのだが、船体の性能に差がありすぎるので、速い船はついつい先へ行ってしまうのだ。 ところで、父島より母島の方が山が高い。父島最高峰の中央山が標高317メートルなのに対して、母島は乳房山が463メートル、堺ヶ岳が444メートル、石門山が405メートルとである。ところが面白いことに海岸線の景色に父島南海岸のような断崖絶壁の威圧感がない。もちろん南崎をかわすと、東港まで上陸できるところはなく、ずっと断崖が続くのだが、母島という名前通り父島に対して何となく優しいのだ。東崎をかわし、大崩湾にはいると波も穏やかになり、少し休憩する。大崩と呼ばれるだけあり、断崖の一部が崩落し、赤い地肌が剥き出しになっていて大自然の荒々しさを感じる。石門崎をかわし、左奥に東港の防波堤を見て、いよいよ北海岸に回り込む。潮は進行方向に流れていて、快調に進む。波が変なふうに立っているので、私は沖目にかわすが、初心者のベルーガはかまわず最短距離で突っ切っていく。 乾崎に近づくにつれて、うねりが大きくなる。しかしゆったりとしたうねりなので、恐怖感はない。折田さんからは、鬼岩との間を行けとアドバイスされていたので、川の瀬のような大きな返し波が立っていたが、迷わず突っ込むことにした。ここはやはり緊張した。 難所を越えた初心者と私の二人は、のんびり相棒を待った。ここを越えれば母島一周も難所はもうない。相棒の雄姿を記録しようとビデオカメラなど構えていたのだが、その彼を突然大波が襲った。不思議なもんだ。なぜこんな波が突然起こったのかわからない。しかし彼は、沈することもなかった。いつも思うが、ビデオやカメラを向けると、見せ場を作る男である。ここからはパドリングがつらくなる。今までの緊張感から解放されたためか、急に足がつりだした。身動きがほとんどとれない小さなデッキの中では、どうすることも出来ず苦しむしかなかった。足の痛みをだましだまし前進した。そのうち大きな背鰭が三つほど、五,六メートル前の海面からせり出した。驚いた私は思わず「サメだ!」と叫んでしまった。その声にびっくりしたのか背鰭はすぐに消えてしまった。しかし冷静に考えてみるとイルカかもしれない。するとまたもや背鰭が現れた。今度は相棒も確認した。しかしまたすぐに消えた。知床の観光船で一年アルバイトしたことがある相棒はイルカだと断言した。 四本岩には、クジラが現れたという。私たちが越えた直後だったようである。後で知ったことだが、蝙蝠谷展望台から見た者がいた。とすると、私たちのカヤックの下にクジラがいたということか。なんたる大自然の驚異!感動がわき上がってくるではないか。しかしこれは後でわかった話で、この時は、これでクジラでも出たら、最高だよな。」なんて話をしながら退屈を紛らわしていた・・・ 八時間無上陸で念願の一周を達成した。本当はもっとのんびり途中でキャンプなどしながら旅してみたいが、キャンプ禁止のこの小笠原ではかなわない夢である。それでも与えられた条件の中で、私たちは充実したシーカヤッキングを経験した。 1999年  1月1日 最大の目的を果たした私たちは、ふつうの観光客になった。元旦恒例の観光協会主催の行事に参加したり、釣りをしたりしてのんびり過ごした。 1月2日 狭い母島のこと。一周した私たちのことは、一夜にして島中に知れ渡ったようで、このカヌーレースでは優勝候補から「マイジャケのカヌラー」とライバル視されていたそうだ。中央の船だ! 1月3日とうとう母島ともお別れだ。とても素晴らしい旅だった。ママヤの飯はじつにうまかった。島のレモン酒やジャムもおいしかった。そしてママヤでお世話になった折田さんはじめスタッフのお姉さん方、そして同宿した旅行者との語らいが楽しかった。今度こそクジラをカヤックから間近で見てみたい。いつの日か・・・ さよなら。また来るよ。

奄美大島シーカヤッキング2004

今までカヤックでいろんな海を漕いできて、ウミヘビやダツ、でっかいクラゲやサケの死骸、飛び魚などなど、いろいろな生き物に遭遇した。中でもいちばん大きな生き物は、知床のヒグマと小笠原父島のイルカかなあ。父島はクジラで有名なところだから遭遇できるかもと思ったけど、叶わなかった。ところが今回、奄美の海で突然クジラに遭遇してしまった。宿のご主人であるリキさんからは、奄美の海には冬になるとクジラの目撃情報があるということを聞いていた。それを裏付けるかのように、その前日の新聞に徳之島でザトウクジラが目撃されたという記事が一面トップで報じられていた。なんとなく小さな期待感も無くはなかったのだけれど、ほんとうに遭遇するなんてこれっぽっちも思ってはいなかったのだ。奄美ではカケロマ島の徳浜沖が、クジラに出会える有力ポイントらしい。昨年2月、カヤックでカケロマ島一周をした時に徳浜沖を通り過ぎたけど、もちろん会えなかった。 今回の旅の最終日、海はカヤック日和だった。半日しかないけど、奄美本島とカケロマ島に挟まれた大島海峡から太平洋に飛び出してみようと、皆津崎をかわしてホノホシ海岸へ行ってみることにした。大島海峡から外海の太平洋へと漕ぎ出すと、海の色が一気にエメラルドグリーンからディープブルーに変わる。さすがに外海らしく、小さなうねりといえども岩壁にぶつかる波のパワーはすごい。緊張する。皆津崎をかわす前にちょっと上陸休憩した。このほんのわずかなタイミングが、クジラとの出会いを実現させてくれたのだが、誰が想像できただろうか。いよいよ皆津崎をかわす時がきた。その時大きく岬から離れて沖を漕いでいたら、きっと正面からクジラと遭遇していたにちがいない。しかし、私たちは岬に小舟がやっとすり抜けられるほどの小さな水路を見つけた。距離を少しでも短縮するために、この水路を抜けた。ちょうど抜け出るかどうかという時、前席を漕いでいた家内が素っ頓狂な叫び声をあげた。私も反射的に黒い大きな物体を見た。すぐにクジラが頭に浮かんだ。もしクジラだったら、しばらくしたらまた姿を現すかもしれない。緊張しながら前方の海面の様子に集中する。すると突然大きな物体が海面に現れ出た。まさしくクジラだ。背中だろう。すぐに尾ビレが出た。この尾ビレの形、昨日の新聞に出ていた徳之島のザトウクジラと同じだ!おっと、背中から潮を吹く!! クジラまでの距離、4~50mくらいだろうか。前席の家内にビデオで撮影するよう咄嗟に叫ぶが、家内からこれ以上近づかないようにというパニック気味な言葉がすぐにかえってきた。 この時、クジラに近付きたかったが、とうとう近付けなかった。家内が近付かないでと訴えたからではない。距離があっても、クジラの存在感がビンビン伝わってくるのだ。アウトドア雑誌の写真なんかで、カヤックのすぐそばでクジラが海面から飛び出しているようなシーンがあるが、あんなのよほどの勇気がなければできないことだと実感した。何度か私達の前にクジラは姿を現してくれた。しかし、前に進むことができず凍りついた私達の前からは、みるみるクジラは遠ざかって行った。クジラは1頭ではなかった。少なくとも2頭を確認した。太平洋の沖合へ消えていった。

鵜ノ巣断崖~北山崎2024

筑波山から八甲田の酸ヶ湯温泉への移動途中で三陸を寄り道しました。震災後まだ間もない2011年の秋に、宮古で開催された三陸シーカヤックマラソンに参加した忘れられない思い出の地です。 震災前から三陸の海をカヤックで漕ぎたい夢をもっていたのになかなか実現せず、実際に初めて漕いだのが震災直後の三陸シーカヤックマラソンでした。イベントの後、浄土ヶ浜までツーリングしながら、もう一度また漕ぎに来たいと思いました。 再訪は2014年8月に実現しました。鵜ノ巣断崖や北山崎の断崖直下の海を漕ぐことが出来ました。 無数の洞窟をくぐりました。2014年はまだ震災の復興真っ只中で、もちろんそのことはいつも頭に入れて行動する必要がありました。 今回通過するだけでしたが、震災後13年以上の月日の重みを強く感じることが出来ました。一見するとほとんど復興したかのように新しい町並みや道路、漁港、堤防などが目に飛び込んできました。うっかりすると津波の恐怖を忘れてしまいそうになります。でもまだまだ癒やされることのない深い傷痕もあると思いました。 鵜ノ巣断崖の展望台からまたもう一度漕ぎに訪れたいと強く思いました。

11月のレイクカヤック2024

今年は紅葉が遅れているおかげで11月に入ってもまだまだ各地で楽しめています。奥利根湖の見頃は先週だったようで、ブナの葉っぱはほとんど落ちていましたが、ツツジ類やカエデ類の葉っぱは散らずにたくさん残っていました。 10月から出艇時間が午前8時半で、ゲート前にはエンジン付きボートを牽引した車が10台くらい並びました。カヤックは私一人だけだったようで、エンジンボートがすべて出艇した後で最後に一人静かに漕ぎだしました。 釣りのハイシーズンではないので、風のない湖面は静寂です。紅葉が鮮やかな入江を目指して気の向くままにパドリングを楽しみました。 幽ノ沢のバックウオーターに上陸してみました。ほぼ満水なので綺麗な水が流れる沢の中にカヤックを付けることができました。 昔はキャンプなども自由だったので、釣り人や沢登の人などで人気のあった沢ですが、今はヤマハハコのドライフラワーがひっそりと迎えてくれました。 奥利根湖はこれから長い長い冬の季節を迎えることでしょう。来週は高い山が再び雪化粧する天気予報です。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅰ

じりじりと紫外線が肌をこがす。モクモクと積乱雲が大きくなっていく。スコールは、茹だった身体には気持ちいい。突然、彼方の水平線に稲妻がおち、爆音が海面にとどろく。ダツが不意に舟の前方を飛んだりするので、これが運悪く身体に突き刺さったら大変。サメの恐怖も、いつも頭のどこかでちらついている。でも漕ぐごとに変幻自在な珊瑚の海の色彩は、リスクと隣り合わせでもシーカヤッカーを虜にするよ。 1 石垣島から竹富島へ 朝飯前に石垣の港の片隅でカヤックを組み立てていたら雷が鳴り出して、やがてスコールだ。ポツポツきたなと思っていたら、ザーッ、ゴーッと一気にくる。途中でホン投げて一目散にホテルへ逃げ帰る。昨日まではずっと晴天が続いていたらしいが、どうやら突然現れた小笠原諸島近辺の台風7号の影響から、大気が不安定になったらしい。これから旅がはじまるというのに、ついていない。私たちに対して、地元の人は恵みの雨だと喜んでいる。複雑な気分だ。7月下旬のこの時期、南の島では農産物が実りの季節らしい。台風がきて舟や飛行機が動かなくなると大打撃をうけるが、雨は貴重な水資源なのだ。タクシーの運ちゃんが話していた。 ゆっくり朝食を済ましてようやく雨があがった頃、ホテルをチェックアウトしてカヤックの場所に戻る。中学生がウミヘビを捕まえてワーワー騒いでいた。ペットボトルに封じ込めて、水族館状態だ。ウミヘビはハブよりもずっとずっと猛毒をもっていて、咬まれたら大変らしい。さすが南の島の中学生はワイルドだ。ただ安心なのは、おちょぼ口だからなかなか人を咬めないらしい。よかった。ウミヘビは、この後のツーリング中に、相棒が2度も出会った。一緒にならんで漕いでいると、突然ぎゃーっと叫ぶので何だと聞くと、波間に浮かぶウミヘビがいたというのだ。ウミヘビは、さすがに爬虫類で、胚呼吸のために海面に浮いていなくてはならないみたいだ。 出発時刻は11時になってしまった。港を囲む防波堤の向こうすぐに、竹富島が見える。不安定な天気が続くようなので、今日は小浜島まで行こうと、日程について相棒と話し合う。石垣島から西表島までは、日本最大の珊瑚礁が広がる石西礁湖と呼ばれるリーフの中を漕ぐ。昨日飛行機の窓から眺めた時、石垣島から竹富島あたりにはエメラルドグリーンの浅い珊瑚礁の海が光り輝いていた。私にとって未知の海だが、不安はない。それよりも、石垣島から7つの有人島への航路があり、石垣港に絶えず高速船が出入りしているので、それらの邪魔にならないように慎重に港からでなければならない。 港を抜け出ると、八重山の海がパッと広がった。心が軽やかになり、パドリングのリズムも身体から自然に生まれるようだ。今はめったにいないが、昔は竹富島の人が泳いで石垣島に遊びに来ることが良くあったそうだ。潮は石垣から竹富へ流れているのに、強い人がいたものだ。まさしく海人(ウミンチュ)。南の海の日ざしは、半端ではない。長袖シャツと日よけ帽は、強烈な紫外線から身体を守るためになくてはならない。気温32度なのに、長袖なんて暑くて着られるかと考えていたが、実際に海に出てみるとすぐに納得する。 船道を示す標識が島々の間に立っている。なぜなら高速船は、浅すぎるリーフの上を自由自在に航行することはできないからだ。しかし、シーカヤッカーは自由だ。潮がひいて漕げなくなれば、カヤックを曳いて歩けばいいのだ。ただこれから先、どんな大自然の脅威があるかわからない。竹富島には1時間ほどで着いた。少し休憩をして先へ進むことにした。小浜島を目指す。島の北側をかわそうとしたが、リーフの浅瀬に行く手を阻まれる。リーフでは岸から遠ければ深いという常識は通じない。海の真ん中で突然浅瀬が現れる。海の色を読んで、たとえ自由なカヤックといえども、航路を見つけていかなければならない。結局リーフの外に出るために、一度カヤックから降りて曳かなければならなかった。海の色が次々に変化する。陽の光の加減や水深、珊瑚礁や砂、海藻などの海底の地形によって、エメラルドからコバルトまでグリーンやブルーが変幻自在だ。たくさんの魚たちが泳いでいるのも、カヤックからのぞくことができる。突然、彼方の海上に稲妻が落ちる。そして、海面がさざ波立つかと思われるほどの轟音。楽しいパドリングが一転恐怖のパドリングに。私たちは、竹富島と小浜島の中間近くまで来ていた。追い風と追い潮に助けられて、軽やかに進んでいたのだ。しかし、相棒と撤退を決める。反転して、竹富島へ避難だ。今度は向かい風と逆潮に阻まれながら、必死になってパドリングする。スコールがさらに精神的に私達を追いつめる。相棒はあまりの向かい風に、愛用の笠を飛ばされてしまう。やっとのことでコンドイビーチに逃げ込むことができた私たちは、いきなり初日から雷という大自然の脅威に平伏させられることになってしまった。今日は小浜島なんてとんでもない、竹富島に民宿を探してのんびりしようということになった。