カヤック

11月のレイクカヤック2024

今年は紅葉が遅れているおかげで11月に入ってもまだまだ各地で楽しめています。奥利根湖の見頃は先週だったようで、ブナの葉っぱはほとんど落ちていましたが、ツツジ類やカエデ類の葉っぱは散らずにたくさん残っていました。 10月から出艇時間が午前8時半で、ゲート前にはエンジン付きボートを牽引した車が10台くらい並びました。カヤックは私一人だけだったようで、エンジンボートがすべて出艇した後で最後に一人静かに漕ぎだしました。 釣りのハイシーズンではないので、風のない湖面は静寂です。紅葉が鮮やかな入江を目指して気の向くままにパドリングを楽しみました。 幽ノ沢のバックウオーターに上陸してみました。ほぼ満水なので綺麗な水が流れる沢の中にカヤックを付けることができました。 昔はキャンプなども自由だったので、釣り人や沢登の人などで人気のあった沢ですが、今はヤマハハコのドライフラワーがひっそりと迎えてくれました。 奥利根湖はこれから長い長い冬の季節を迎えることでしょう。来週は高い山が再び雪化粧する天気予報です。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅰ

じりじりと紫外線が肌をこがす。モクモクと積乱雲が大きくなっていく。スコールは、茹だった身体には気持ちいい。突然、彼方の水平線に稲妻がおち、爆音が海面にとどろく。ダツが不意に舟の前方を飛んだりするので、これが運悪く身体に突き刺さったら大変。サメの恐怖も、いつも頭のどこかでちらついている。でも漕ぐごとに変幻自在な珊瑚の海の色彩は、リスクと隣り合わせでもシーカヤッカーを虜にするよ。 1 石垣島から竹富島へ 朝飯前に石垣の港の片隅でカヤックを組み立てていたら雷が鳴り出して、やがてスコールだ。ポツポツきたなと思っていたら、ザーッ、ゴーッと一気にくる。途中でホン投げて一目散にホテルへ逃げ帰る。昨日まではずっと晴天が続いていたらしいが、どうやら突然現れた小笠原諸島近辺の台風7号の影響から、大気が不安定になったらしい。これから旅がはじまるというのに、ついていない。私たちに対して、地元の人は恵みの雨だと喜んでいる。複雑な気分だ。7月下旬のこの時期、南の島では農産物が実りの季節らしい。台風がきて舟や飛行機が動かなくなると大打撃をうけるが、雨は貴重な水資源なのだ。タクシーの運ちゃんが話していた。 ゆっくり朝食を済ましてようやく雨があがった頃、ホテルをチェックアウトしてカヤックの場所に戻る。中学生がウミヘビを捕まえてワーワー騒いでいた。ペットボトルに封じ込めて、水族館状態だ。ウミヘビはハブよりもずっとずっと猛毒をもっていて、咬まれたら大変らしい。さすが南の島の中学生はワイルドだ。ただ安心なのは、おちょぼ口だからなかなか人を咬めないらしい。よかった。ウミヘビは、この後のツーリング中に、相棒が2度も出会った。一緒にならんで漕いでいると、突然ぎゃーっと叫ぶので何だと聞くと、波間に浮かぶウミヘビがいたというのだ。ウミヘビは、さすがに爬虫類で、胚呼吸のために海面に浮いていなくてはならないみたいだ。 出発時刻は11時になってしまった。港を囲む防波堤の向こうすぐに、竹富島が見える。不安定な天気が続くようなので、今日は小浜島まで行こうと、日程について相棒と話し合う。石垣島から西表島までは、日本最大の珊瑚礁が広がる石西礁湖と呼ばれるリーフの中を漕ぐ。昨日飛行機の窓から眺めた時、石垣島から竹富島あたりにはエメラルドグリーンの浅い珊瑚礁の海が光り輝いていた。私にとって未知の海だが、不安はない。それよりも、石垣島から7つの有人島への航路があり、石垣港に絶えず高速船が出入りしているので、それらの邪魔にならないように慎重に港からでなければならない。 港を抜け出ると、八重山の海がパッと広がった。心が軽やかになり、パドリングのリズムも身体から自然に生まれるようだ。今はめったにいないが、昔は竹富島の人が泳いで石垣島に遊びに来ることが良くあったそうだ。潮は石垣から竹富へ流れているのに、強い人がいたものだ。まさしく海人(ウミンチュ)。南の海の日ざしは、半端ではない。長袖シャツと日よけ帽は、強烈な紫外線から身体を守るためになくてはならない。気温32度なのに、長袖なんて暑くて着られるかと考えていたが、実際に海に出てみるとすぐに納得する。 船道を示す標識が島々の間に立っている。なぜなら高速船は、浅すぎるリーフの上を自由自在に航行することはできないからだ。しかし、シーカヤッカーは自由だ。潮がひいて漕げなくなれば、カヤックを曳いて歩けばいいのだ。ただこれから先、どんな大自然の脅威があるかわからない。竹富島には1時間ほどで着いた。少し休憩をして先へ進むことにした。小浜島を目指す。島の北側をかわそうとしたが、リーフの浅瀬に行く手を阻まれる。リーフでは岸から遠ければ深いという常識は通じない。海の真ん中で突然浅瀬が現れる。海の色を読んで、たとえ自由なカヤックといえども、航路を見つけていかなければならない。結局リーフの外に出るために、一度カヤックから降りて曳かなければならなかった。海の色が次々に変化する。陽の光の加減や水深、珊瑚礁や砂、海藻などの海底の地形によって、エメラルドからコバルトまでグリーンやブルーが変幻自在だ。たくさんの魚たちが泳いでいるのも、カヤックからのぞくことができる。突然、彼方の海上に稲妻が落ちる。そして、海面がさざ波立つかと思われるほどの轟音。楽しいパドリングが一転恐怖のパドリングに。私たちは、竹富島と小浜島の中間近くまで来ていた。追い風と追い潮に助けられて、軽やかに進んでいたのだ。しかし、相棒と撤退を決める。反転して、竹富島へ避難だ。今度は向かい風と逆潮に阻まれながら、必死になってパドリングする。スコールがさらに精神的に私達を追いつめる。相棒はあまりの向かい風に、愛用の笠を飛ばされてしまう。やっとのことでコンドイビーチに逃げ込むことができた私たちは、いきなり初日から雷という大自然の脅威に平伏させられることになってしまった。今日は小浜島なんてとんでもない、竹富島に民宿を探してのんびりしようということになった。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅱ

II. 竹富島~小浜島~西表島(大原) コンドイビーチから集落への道ぞいには、真紅のハイビスカスが目を楽しませてくれる。ヤドカリが道路の真ん中を歩いていたが、私たちに驚いて貝殻の中に引っ込む。亜熱帯の道路はのんびりしたものだ。カヤックを浜に残して、とりあえず集落に向かって歩くことにした。今日の宿を見つけなければならない。 ビジターセンターには、サンゴのちょっとした資料館があって、枝サンゴやテーブルサンゴなどのいろいろな標本がある。石西礁湖のことやサンゴの生育について解説していたが、当然標本は、みな白骨化したものばかりだ。サンゴのあの鮮やかな色彩が再現されていなくては、かなり物足りない。とりあえず雷の恐怖から逃れることができ、オリオンビールでおつかれさんをすることにした。 私たちの今夜の宿は、大浜荘だ。集落の中心にあるレンタサイクル屋で自転車を借りて、必要な荷物を取りにコンドイビーチに戻った。ついでに自転車で島のだいたいの道を回って観光する。舗装せず白砂のままの道、サンゴの石垣や赤瓦屋根などとても美しいのだが、徹底した景観保護が行われているらしい。 夕方から心地良い風が吹きだした。民宿の部屋の窓を開けると、冷房がいらないくらい涼しい。ニュースでは、甲府で40.7度、前橋で40,2度の最高気温を記録したなどと騒いでいる。沖縄に来るまでずっと前橋で寝苦しい夜を過ごした相棒は、「ざまあ、みろ。」と喜んでいる。いったい誰にざまあみろなのか。 戸を開け放しているので、蚊が入ってこないように部屋を真っ暗にしてごろんと横になっていた。近所から3線(サンシン)の音が鳴りだした。それに合わせる手拍子、独特の節回しの歌が賑やかにはじまる。地元の人たちの宴会だろうか。笑いや掛け声も聞こえてくる。3線の音が聞こえてきてうっとりとしばし耳を傾ける。竹富島には種子取(たにどる)祭という伝統芸能が守り続けられている。旧暦の9~10月、10日間にわたって「まいた種が土地に根付いて豊かに実りますように。」と神に祈る儀式が行われるそうだ。この祭りで毎日たくさんの歌と踊りが神に捧げられる。島の人口と同じくらいの民謡が伝えられているらしい。その数300余。そんな島だから、夜になるといろいろなところから三線の音に合わせての歌や踊りが聞こえてくるようだ。 翌朝は雨もあがったが、どんよりした空模様でのんびり気分。しかしコンドイビーチに立つと、凪いだリーフの海がシーカヤッカーの心を騒がせ、シャキッとなる。宿の人たちに見送られての出艇。ちょうど満潮の潮どまりの時間帯のようだ。コンドイビーチの景色の中でも、とびきり美しい表情ではないかと思う。南国らしい燦々とした太陽に輝くビーチもいいが、雨上がりの朝のしっとりしたビーチの優しい色彩もなかなかのものだ。今日は小浜島からさらに霞んで見える西表島へ渡りたい。 沖にでるほどに左後方から風を感じる。凪いでいた海も、風の影響からかうねりがではじめ、白波も立つ。私たちは快調に小浜島に向けて進む。時々サーフィンのように波に乗ることができるが、ラダーが宙を切りカヤックが振り回される。空模様からそんなにあわてることもないが、大洋の真ん中で海が突然荒れだしたらと想像すると、気持ちいいものではない。追い風に助けられ一時間半ほどで、小浜島の船崎漁港に到着。 小浜島もやはり集落は島の中央部にあって、漁港には港湾施設とダイビングや観光船の店が二軒あるのみだ。ちょうど昼食時だが、ここには食堂がない。親切なおばさんが食堂まで乗っけてってくれる。小浜島は今売れている四人組のアイドルグループのメンバーの出身地だそうだ。私たちはあまりくわしくないので、その時おばさんの話を聞いてもよくわからなかったが、後で石垣の図書館で彼らの本を探して読むことができた。ダ・パンプのメンバー、シノブだ。シノブの生家は民宿みやらだ。出身の小浜小・中学校は、島の高台にあり海がよく見える。東京から何千キロも離れたのどかな島の音楽好きの少年が、10年後かには有名な芸能人になるなんて誰が予想できたんだろうか。そしてそれにもまして、小浜島はNHKの朝の連続テレビドラマ「ちゅらさん」で日本中の注目の的になっている島だ。帰りはのんびり島の道を歩いて途中からヒッチをしてカヤックのある漁港に戻った。 ボリュームたっぷりのゴーヤーチャンプルー定食を食べて大満足。小浜島を後にする。小浜島と西表島にはヨナラ水道という潮流のきつい川のような海峡が横たわっている。この海峡は別名マンタウエイと呼ばれ、マンタが見れるダイビングスポットとして有名らしい。小浜島の北海岸を西に進み、いよいよヨナラ水道を目前にする。左に「ちゅらさん」に出てくるガジュマルの木が、海の上のシーカヤックからも眺められた。 浅い珊瑚礁のリーフから川のように潮がひいていく。珊瑚礁の海の大自然の現象だ。ヨナラ水道を横断するには、まずリーフの外に出なければならない。とうとうカヤックから降りて、歩いてリーフの外に出る。リーフの外に出ると、大河のようなヨナラ水道があった。ゆっくり左から右に潮が流れていたが、スピードの出るカヤックにとっては問題ではなかった。今までエメラルドグリーンの珊瑚礁の海の色に馴れていたせいか、ディープな黒い海の色が不気味に感じた。西表島側のリーフの海を今度は南進する。もう3時半を回っていたが、目的地の大原漁港まで遠い。潮はどんどんひいて、相当沖を漕いでいても浅い。右手に水牛車で有名な由布島を見て、もう嫌になるほど漕ぎ進んで、とうとう浅すぎてカヤックから降りなければならなくなった。満潮なら簡単に仲間崎をかわして大原漁港へ行けるのに、浅いリーフはずっと沖まで続いていて、何倍もの遠回りをしなければならなかった。相棒も自棄になっていた。これこそ、珊瑚礁の海の落とし穴だ。海の美しさだけに見とれていたら、潮の干満という大自然のエネルギーに飲まれてしまうのだ。おかげで、くるぶしくらいの浅いリーフを、由布島の水牛車のようにえんえん歩いたサ。大原漁港に着いたのは6時半を過ぎていた・・・

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 III

III. 西表島南東部・仲間川 大原港に着いたのは六時半過ぎ。斜路は干潮で使えず、仕方なく港の片隅にカヤックを引き上げる場所を見つけ、最後の力を振り絞って上陸。南の島の日没は遅いのでまだ明るいが、さすがにもう港は閑散としていた。相棒は、歩き疲れ?か元気がない。宿を見つけなければ。こんなに遅い時間では、夕食のサービスなど、とても望めるはずはないだろう。とにかく冷房と冷たいビールがあれば、どんな宿でも良かった。二軒目の民宿南風見荘からいい返事が返ってきた。30分後に港まで迎えに来てもらう。聞けば、近くに九時半までやっているスーパーがありラッキー。とりあえずシャワーを浴びたら人心地ついた。南風見荘は居心地がいいので、二晩お世話になることになった。 西表島は、マラリアに汚染されていたため、なかなか人が住めなかったらしい。人々は、竹富島や小浜島などまわりの島に住みながら、西表島に田畑を開いて農作業のために通ったのだ。開拓のために強制移住させられた人もいたようだ。いや、夢や希望をもって、定住した人もいたかもしれない。大原は、古見や祖納のように古くからの集落のようで、ここは、新城(アラグスク)島や黒島から移住した人が多いと、宿の人が話していた。いずれにしろ、人頭税という重い税金に苦しみ、人々の生活は大変だった。笹森儀助の南島探検には、当時の圧政に苦しむ人たちのことが記されている。明治になって島の西側にたくさんの炭坑が開発されるようになった。強制労働をさせるためにたくさんの人が連れてこられたり、騙されてやって来たりしたそうだ。西表島の炭坑史の本を読むと、あまりにも悲惨な出来事がジャングルに埋没されているということを知った。美しい海に囲まれ、燦々と頭上から太陽が照りつける大自然のこの島から、そんなことは微塵も感じられない。そういえば、釧路川をツーリングしたときも、釧路の開拓の歴史を知り、北の大地ののどかで雄大な風景からは想像などできず、同じような気持ちになったものだ。 島の東側に由布島がある。今では、かなり有名な観光地だ。島は植物園で、西表島から浅いリーフの海を水牛車で往来する。翌日、民宿で車を借りて半日観光したのだが、途中イリオモテヤマネコの保護や研究をしている野生生物保護センターやサキシマスオウの木を見学して、ここまでやって来た。南国情緒あふれた風情に、たくさんの観光客で賑わっていた。本土からのたくさんの若者が、今では島の手伝いをしているらしい。しかしこの島が成功したのはそんなに昔の話ではない。「楽園を作った男・沖縄由布島に生きて」を読むと、入植者たちの大変な苦労の歴史が伝わってくる。昨日はこの由布島を右に見て、必死でカヤックを進めていた。カヤックで島渡りをしている私たちは、順番待ちをしてまで由布島へ渡るのももどかしいので、水牛車に乗る観光客の様子などをしばらく眺めていた。相棒は、島のおばさんから「ここで暮らすのは楽しいよ。いつでもおいで。」なんて誘われていた。島はおおらかで、歴史も人もすべて呑み込むのだ。 午後は、仲間川を遡ってみることにした。今日も雷が遠くで鳴り出しているが、大海原ではないので気にしない。マングローブの生い茂る岸辺に避難すればいい。潮がどんどん引いていく。そんなこと、なんにも考えていなかった。はじめは川の流れだと思っていたのだが、それはどうやら錯覚だったのだ。川の水深が低くなっていくのだから・・・。1キロほど遡ったところで、相棒が帰れなくなるぞなんて言い出した。観光船があれほどけたたましく往来していたのに、そういえば午後になって店じまいをしていた。確かにこの水深ではもうエンジン付きは無理だろう。すぐに我々も引き返すことにした。ひょっとしてカヤックなら大したことなかったかもしれないが、昨日の今日である。もう水牛のようにカヤックを引っぱって歩く苦労は御免だから・・・シーカヤッカーは、潮の満ち引きをいつも頭に入れておかなければならない。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅳ

与那国島舞台の「老人と海」という映画がいい。カジキマグロを獲るために、サバニ(小舟)でひたすら漁に出る頑固なオジイ。オジイに寄り添い、陰でしっかりと不漁のオジイをささえるオバア。リアリスティックなカメラワークが、南海の孤島の大自然と向き合ってたくましく生きる人々の姿を、淡々と重々しく映し出していた。 40キロ沖にある直径9mの気象ブイのまわりには、こんなのがいっぱい泳いでいるんだって! IV.  大原漁港~西表島南岸~パイミ崎~白浜 無人の西表島南海岸を時計回りに進む。 マングローブの種がプカプカ流れてくる仲間川の河口にあるため、泥水で濁っている大原漁港をようやく抜け出て、島を時計回りに進むコースをとる。天気は回復し、南国らしい明るい太陽と青空は、雷の不安を少し和らげてくれる。昨日一日休養をとったので、パドリングは軽い。左に黒島や新城島を眺めながら、順調に進んだ。南風見崎をかわすと波照間島も見えた。新城島や黒島、波照間島へ次回は渡ってみたいなと思う。波照間島は天気が良くなければ無理だろうが、亜熱帯の大海原を漕ぎ進むのはドキドキするにちがいない。豊原という集落が過ぎれば、これから西海岸の船浮というところまで無人の海岸線を漕ぐことになる。30キロ近くあるだろう。とにかく雷が落ちないことを祈るのみだ。途中でキャンプする覚悟はできていたが、できれば白浜までたどり着きたい。南風見田浜の沖合をのんびり漕ぎ進む。カヤックが進むほどに、小さなカヤックのデッキのまわりいっぱいに広がる海の色が、変幻自在に輝く。小さな波頭に光が反射し、ブルーとグリーンがやわらかくて深い色合いと模様を創り出す。底を覗き込むと、様々な形や色の珊瑚とそれに群れる色とりどりの熱帯魚が滑らかに過ぎていく。このような楽しいパドリングがしばらく続いた。南風見田浜はウミガメの産卵地だそうで、その保護のためキャンプ禁止だ。しかし沖合から眺めると数組のテントやタープがあった。西表には、無人の浜に住み着いたりする人間が多くいるらしい。10年も住んで、そこで人知れず亡くなった人とか、本土で半年働いて、半年ここでのんびり生活する人とか、様々のようだ。考えてみれば、水と食料さえあれば暮らせるのだから、何もしたくない人にとってここは楽園である。2時間ほど漕いで、南風見田浜を過ぎたあたりで休憩のため上陸する。リーフの際では大きな波が立っていた。ジャングルが覆い被さるような小さなビーチにカヤックを上げると、すぐに海に飛び込んだ。茹で上がった身体には、たまらなく気持ちいい。そして、ジャングルの木陰に入り体を休める。 ここにもウミガメの産卵の痕跡らしきものが。 まだまだ先は長い。さらに海岸沿いに進み、鹿川湾を横断してパイミ崎をかわすまでは安心できない。リーフの際にできる大きな波をかわして、またパドリングの旅を続ける。はるか後方の大きな雲の塊が気になるなあと思っていたら、鹿川湾の沖を過ぎるあたりで突然のスコール。茹だった身体を冷ましてくれる。気持ちいいが、眼鏡の雨粒が鬱陶しい。地図を見ると、右手の湾の真ん中あたりに岩礁があるらしく、良いダイビングスポットなのかフィッシングスポットなのか、船が浮かんでいる。沖合にも数隻の釣り船が小さく見える。湾の奥深くにビーチが見える。ここは水も流れていて、キャンプするには絶好の場所らしい。通り過ぎてしまうのはちょっと残念な気もしないではない。しかし、後で西表炭坑史などを読むと、多くの脱走労働者がこういったところで亡くなっているらしい。湾を横断しきると、落水崎がある。落水崎は名前そのもので、ジャングルから湧き出てきた水が、崖を滝のように流れ落ちていた。滝に打たれたら、さぞ気持ち良さそう。 スコールを浴びながら・・・ ついにはるか後方で雷が鳴り出した。上空は青空だったが、後ろから雷雲が迫ってきているように感じる。左後方の波照間島の上には、どす黒く雷雲が覆っていた。前方の海面が一瞬光り、稲光だとわかる。三回に一回は大きな雷鳴が恐怖心をあおる。一度だけまわりの海面をさざ波たてるほどの爆音がしたときはびっくりした。いつの間にかパドリングの手に力が入る。ずっと先のウビラ石をかわしても、パイミ崎はさらにまた同じくらいの距離を漕がなければならない。この先はずっと岩礁帯の海岸だ。うねりが大きて、海岸には波が白く砕け散っていて、とてもカヤックを着ける気にはならない。雷から逃れるために上陸できるような場所は、パイミ崎の先のビーチまで行かなくてはならないようだ。相棒は遅れがちだ。紫に近いブルーの妖しい海の色は、不気味にどこまでも続くかのように感じられた。水平線の彼方の積乱雲の真っ直中にカヤックが迷い込んだら、そこは雨風の吹き荒れるホワイトアウトのような世界なんだそうだ。とにかく漕いで漕いで漕いだ。二時間ほどで無事パイミ崎をかわすことができた。 パイミ崎のビーチは今までとは別世界の楽園だった。 相棒は感慨深くパイミ崎を眺めていた。以前反時計回りで西表島の南海岸を回ろうとして、この岬がどうしてもかわせなかったらしい。パイミ崎の向こう側は穏やかなリーフの海が広がり、いつの間にか青空と明るい太陽が戻っていた。西表島は、400m前後の山が大海原に突然聳えているような島だから、いつも山に雲がかかっている。島のこちら側と反対側では、天気もかなり違うようだ。私たちが来た方向のずっと向こうの空にはどす黒い雲があったが、雷の音もまったく聞こえなくなり、もう安全地帯のようだった。明るい南国の太陽の光が、青い海と白い砂に燦々と降り注ぐ。広々としたビーチの背後にはジャングルが鬱蒼としているだけ。誰もいない無人のビーチは、なんと健康的なんだろうか。これぞ南の島のパラダイスかもしれない。カヤックをビーチに着け、さっそく海に潜る。人なつこいクマノミが、今までの苦労を十分に労ってくれた。ここから民宿のある白浜までは、まだまだかなりの距離があった。崎山湾、網取湾の沖を横切り、サバ崎をかわして、内離島と西表島の間を通って白浜の集落が見えるところまで漕ぎ続けたとき、六時半を回っていた。今日もこんなに遅い時間まで漕いでしまった。カヤックから携帯で金城旅館に電話したら、夕食も準備して泊めてくれた。いい一日だった。 外離島に沈む夕日を白浜から眺めるのんびりしたひととき。 この夜の相棒は、なぜかハイな気分のようだった・・・。今回の旅の核心部を、無事通過できた安堵感からかな。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅴ

V. 西表島・白浜~鳩間島~バラス島~西表島・上原 小笠原の南海上に台風が発生し、どうやら進路をこちらに向けたようだ。カヤックによる島渡りの旅も、今日までかな。粗末な丸太船で、新天地の島を目指した古代の人たちだって、良い日和を待って琉球列島の島から島を渡り歩いた。今度はいつになるかわからないけれど、またいつの日か小さな旅の続きをしようと思う。 翌日は休養日。朝もゆっくりで、外離島を一周して内離島に面したビーチで午後をのんびり過ごす。せっかく南の島に来たんだから、こんな贅沢な日が一日くらいあってもいいだろう。相棒が宿でクーラーボックスと氷を準備してもらい、そこに十分な量のビールを仕入れてきた。太陽が燦々と降り注ぐ美しい無人のビーチで、ゴクゴク缶ビールを飲み干した。そして熱いラーメンと焼きめしを、ズルズルワシワシと食った。その後は、遠浅の海に仰向けで顔だけ出して浸かり、昼寝。相棒の姿が見えないので、どこに行ったのかなと心配していたら、ずっと向こうのなかなかいい木陰で昼寝をしていた。ところで、こんなにも楽園なところだけれど、悲惨な歴史の傷跡がどこに残っているんだろうか。この外離島にはかつて炭坑があった。明治になって、島の西側にたくさんの炭坑が開発されるようになったのだけれど、本土から遠く離れ、マラリアのあるこの地では、そう簡単に労働力を集められなかった。強制労働をさせるためにたくさんの人が連れてこられたり、騙されてやって来たりして、非人間的な扱いをされた。劣悪な労働から逃れるために、多くの脱走が繰り返され、ほとんどが命を失ったそうだ。そうでなくてもマラリアで多くの人が亡くなった。西表島の炭坑史の本を読んで、あまりにも悲惨な出来事が、ジャングルや美しいビーチに埋没されているということを知ったが、こんなにも美しい景色からはとても想像できなかった。 宿にもどって、夕食の準備が出来るまで部屋でウダウダしていたら、女将さんがいいマグロ釣れたから見に来いと呼びに来た。見てびっくり。このマグロは、西表の沖合40キロにある、直径9mの気象観測用の海洋ブイで釣れたんだそうだ。この海洋ブイのまわりには、大型の回遊魚がいっぱい群れているんだそうだ。これを釣った漁師さんは、はじめ擬似餌でやっていたけれどまったくあたりがなく、他の漁船からイカをもらって餌にしたら一発できたらしい。釣り上げるまでに三回休憩を入れたそうだ。豪快な釣りだったんだろうな。 とうぜん夜は、新鮮なお刺身のお裾分けをごちそうになったサ。その夜の天気予報で、どうやら心配していた台風の進路が悪い方になったことを知らせた。旅の理想としては、出発した石垣島へカヤックで戻りたかった。しかし二日後には台風の影響が出始めるらしく、今回のカヤックによる旅は明日で終わらせなければならなくなった。 の朝、宿の前の漁港の斜路から出発の準備をしていたら、地元のカヤックツアーのガイドNさんがやって来た。1泊2日のツアーを計画していたが、台風の接近で日帰りツアーに変更したそうだ。そのツアーを楽しみにしていた小学生の男の子が、ちょっとかわいそうだった。「西表島でシーカヤッキングがこれからも出来るように事故を起こさないでほしい。」とNさんに言われるまでもなく、地元のガイドが予定を変更するのだから私たちも今日で行動を終了するというのは大いに納得した。台風がやってくるなんて気配はまったく感じられない素晴らしい青空の下、鳩間島に向けて出発。1日休養したおかげで、快適なパドリングだ。海峡を横断する前に、無人のビーチで休憩。相棒は鳩真島に1泊したかったらしいが、明後日では船がでなくなる可能性があるのであきらめてもらう。携帯電話で、上原のきよみ荘という宿に予約をいれておいた。いよいよ海峡横断だ。さっき、Nさんから「あそこはサメがよくでるから気をつけろ。カヤックよりもデカイ奴もいるらしいぞ。」と脅かされていた。私たちは臆病者で、ドキドキしながら進むことになった。潮は逆潮だった。思ったより進まなかったが、快調にパドリングを続ける。気がつくと潮に流されて目標地点がいつのまにか大きく右の方に変わっていてびっくり。今までで、一番潮の流れがきついと感じた。ようやく鳩間島に近付いてきたとき、なにやらお祭りの笛や太鼓の音が潮風に乗って聞こえてきた。大きく波立っている港の入り口を突破すると、港のずっと奥の森の中から楽しそうな祭囃子が聞こえてくる。私たちは、なんていい日に鳩間島を訪れたんだろう。豊年祭の真っ最中だった。鳩間島はの印象を一言であらわすとしたら、素朴な島だった。 沖縄そばの屋台もでていて、見学した後腹ごしらえをした。鳩間島の雰囲気は、なかなか。島には宿が3軒あるらしく、台風が来ていなければ泊まりたかった。後ろ髪を引かれながら素朴な島鳩間島に別れを告げ、西表島との間にあるバラス島を目指して出発した。バラス島には30分で着いた。ちょうど観光船が来ていて、私たちの出現にびっくりしていた。相棒がサメのことを観光船の船長に聞いた。「今はイルカがいるから、サメはいないよ。」と言われて、ホッとする。そういえば、なんだか知床岬のヒグマみたいだ。「エゾシカがいるときはヒグマはいねえ。」と漁師に言われたっけ。観光船が去った後、しみじみとした気分になった。いよいよ、最後のパドリングだ。西表島の上原港で、今回のシーカヤッキングの旅は終わった。石垣島を漕ぎだして8日目の朝、石垣島に戻り安宿に滞在して台風の動向に翻弄される。帰りの飛行機が飛ぶかどうかを心配しながら、レンタカーで観光したり図書館や宿で八重山関係の本を濫読。結局台風は、台湾方面へ進路を取り、石垣島には大した被害もなく通り過ぎた。 西表の漁師は、私たちが出航するとき、「水は持ったか。」と聞いた。そして、「水さえたっぷり持ってれば、大丈夫さ。」と言って、笑顔で送り出してくれた。柳田国男によると、さらに漁師は米の籾を布袋に入れて必ず携行する風習があったという。嵐にあって無人島に漂流しても、そこで稲を育てて生き延びるための知恵だったようだ。南の海は、なんだか大らかだ。すべてを呑み込み、受け入れる。北の海とはまったく違う漁師の気質や風習、伝統、知恵があると感じた。

絶海の孤島 小笠原を漕ぐ1998年

1998年1月1日 カヤックの相棒と小笠原諸島父島へやってきたのは、1997年12月30日。到着した日に、観光バスで父島の海岸の様子を下見した。もちろん小笠原は初めてで、この時期にシーカヤックで島を1周したという話もあまり聞かないので、事前の下見での観察眼しか当てになるものはないのだ。一番気になっていたのは兄島瀬戸だった。下見の時間帯は潮があまり動いていないので穏やかだった。島のほとんどの海岸線は道路から隔絶した断崖絶壁だから、下見といっても一部だけしかできない。出たとこ勝負になるだろう。これまでの経験が大いに試されそうだ。下見なんて気休めかもしれない。ただ島の大きさをなんとなく体で感じることができた。おそらく無寄港で漕ぐことになるだろうから時間的な目安をつけることはできた。一日で一周は可能だ。私たちは、反時計回りがいいということで、意見が一致した。 大晦日の日の夜、前浜では賑やかにカウントダウンパーティーが催された。島の人たちの雰囲気が感じられそうな気がしたので、相棒を誘って出かけた。盛大にコンサートが行われ、屋台ではラム酒のカクテルや年越しそばなどが振る舞われた。観光客よりも地元の人たちの方が楽しんでいるといった様子が観察できておもしろかった。 元旦の朝、前浜を出航。二見港から外海に出るにしたがいうねりが大きくなってくる。しかし今まで体験したことがないようなうねりだ。うねりとうねりの間隔が非常に大きい。ゆっくりと波の底からカヤックは持ち上げられていく。そして波の最高点まで運ばれると、またゆっくりと波の底へ落ちていく。野羊山をかわす頃には、風も脅かす。父島の気象観測所の予報では、午前中に風向きが反対に変わるということなので、私たちは迷わず進むことにした。私たちを追い越していくホエールウオッチングやダイビングなんかの観光船が、盛んにエールを送ってくれる。それに応えたいのは山々なんだが、パドルの手を離すことができなかった。  難関はジョンビーチと南島との瀬戸だ。岩礁帯なので、ものすごい波が立っている。ここを越えれば、おそらく静かな海が待っている。しかし越えられるかどうか。うねりの高さは3メートルはある。まさに川下りでの5級の瀬だ!どうする。風は私たちをどんどん押していく。とりあえず一番安全そうなルートにねらいは定めるが、なかなか決心できない。迷っているうちに荒れ狂う瀬へ吸い込まれるように流される。相棒はすぐ隣に漂っているが、うねりのリズムが違えばお互いが見えない。一旦つっこもうと合図を送ったのであるが、迷いをもったまま進むことほど危険なことはないとふと我に返った。「やっぱりもどろう!」と相棒の後方から声を張り上げた。向かい風に逆らって、ブタ海岸に逃げ込む。ブタ海岸には、サーフィンに良さそうな波が寄せていて、サーファーたちがボードに腹這いになって漂っている。ブタ海岸は風の陰になっていたので、奥の片隅には上陸できる所があった。とりあえず様子を見ることにしたが、今日はここまでかなとちょっと寂しい気持ちになった。しかし相棒はもう絶対つっこむ気持ちになっていたので肩すかしを食らったと言う。朝の相棒の様子からは想像もつかない強気な言葉にびっくり。ひょっとしたら今日はまだチャンスがあるかもしれない。  浜でしばらくのんびりした後、タコの木の疎林をかき分け饅頭岬に登り上がって海の様子を見た。風の向きが変わった。相変わらず岬の北側の海岸にはものすごい波が打ち寄せてくる。しかしそのパワーは先ほどよりも弱まってきていることが感じられる。ジョンビーチの辺りの岩礁帯に砕け散る波頭も何となく先ほどよりも小さくなってきている。相棒に確かめてみたら、「じゃ、行くか。」ということになる。  ボードに腹這いに寝そべって、波に漂うサーファーの横をすり抜け、湾の中からまたうねりの大きい海に出ていく。今度はどんなことがあって通り抜けるぞという気持ちがわき上がってくる。迷いは禁物だ。岩礁帯には波が炸裂している。しかし、やはりさっきよりも状況はずっと良い。私たちが通るべきルートがはっきりわかる。うねりのために見え隠れする相棒となんとかルート確認をして、岩礁帯を突っ切った。全力で漕いだ。  南崎をかわすと途端に海の様子は一変した。あれほど荒れていた海が、打って変わって穏やかな海になった。そして断崖絶壁の海岸は知床の断崖よりも迫力があると思った。断崖は剥き出しの荒々しい地形である。亜熱帯の島だからジャングルのような森に覆われていてもいいのかなと思うのだが、激しいスコールは根付こうとする一粒の種子も洗い流してしまうのだろうか。  ここまできたらもう後には引けない。太平洋に浮かぶ絶海の孤島の海を漕いでいく。天之浦に入り込んでみたかったが、先を急がなければならない。少し波がブレークしている巽崎をかわして、西海岸に廻ると追い風だ。調子よくパドリングして、初寝浦まで順調に進む。この辺りの海岸でキャンプを張り、釣りやシュノーケリングをしてのんびり旅をしてみたいものだ。しかし、小笠原はキャンプ禁止である。今日はなんとしても1周して宿に帰らなければならない。  いよいよ兄島瀬戸に入り込む。海の様子が変わる。うねりがなくなり、海面が妙になめらかになる。流れている。どうやら私たちは潮の流れに乗っている。大河のような太く大きな流れだ。少し不気味だが、何もしなくても私たちをどんどん運んでくれる。しかし、問題は瀬戸の出口だ。一昨日のウエザーステーションからの様子だと、大きな三角波が立っているはずだ。釣浜や宮之浦を過ぎていくと、遠くに返し波が見えた。まさに川下りという感じだ。川の瀬のように漕いで突っ込めば、抜けられると確信した。相棒と行くぞという合図をかわして、激しい瀬の中へ漕ぎ進む。大きな返し波を一回頭からかぶった。  東海岸に回り込むと、向かい風になった。もうその頃には疲労がたまってきたのか、進みが遅くなってしまった。ここまでの進み具合を考えると、ゴールまでの距離はわずかだが、漕いでも漕いでも進まないという感じである。相棒はさらに私からどんどん遅れていく。後ろを振り返ってもうねりのせいで相棒の姿がすぐに見つからなくなるので、時々相棒を待ちながら進んだ。  二見港に入港すると、やっと一息つけた。1周することができたという感動が湧いてくる。もう夕方である。ホエールウオッチングやダイビングの船が次々と帰港してくる。私たちも前浜へ上陸した。すぐにビールを買ってきて、海岸に腰を下ろして乾杯した。次は母島かなと冗談を言い合いながら、ビールのうまさに感動した。

偵察レイクカヤック奥利根湖奈良沢2024-7-5

梅雨明け?って勘違いするようなカラッとした猛暑。こんな日は奥利根湖でレイクカヤッキング。 今日の目的地は奈良沢バックウオーター。追い風だったので風を感じずちょっと蒸し暑さを感じながらのパドリング。岸沿いの木陰の中が涼しい。 お昼のお弁当も木陰でゆっくり味わいました。今年は空梅雨とまではいかないですが、渇水かなと思うような雨の少ない梅雨なのに、湖の貯水率は100%近いコンディションです。 帰りは向かい風が涼しくてとても心地よかったです。知床の海を漕ぐために琵琶湖のファルトピアさんで作ってもらったレットマンパシフィックは、奥利根湖でも快適なパドリングでした。

偵察レイクカヤック奥利根湖奈良沢2024-6-19

例年より梅雨入りが遅いようで、今日もカヤック日和でした。カラッとした北風が奥利根の山々から吹き下りてきて肌に心地よいです。 陰なイメージの本流に対して奈良沢は広くて明るい陽なイメージがあります。今日は奈良沢を漕ぎました。 コツナギ沢から奈良沢、最後に幽ノ沢を周りました。今は禁止ですが、昔はよくカヤックでキャンプしました。コツナギ沢のバックウオーターが一番のお気に入りでした。 幽ノ沢バックウオーターに向かう途中、湖面を見慣れぬ怪しげな生き物が泳いでいるのを見つけました。テンかな。 今日もアークティックウインドパドルで3時間ほど気持ちいいパドリングを楽しみました。 奥利根湖は群馬で一番お気に入りのカヤックフィールドです。いつまでも漕げるように安全第一のマナーとモラルで楽しみたいです。

偵察初夏のレイクカヤック奥利根湖2024年6月12日

今日も30度超えの真夏日予報ということで、奥利根湖へカヤックの偵察。前回の奈良俣湖で漕いだ時、ソルティス艇のラダーのワイヤーが突然切れるトラブルがありましたが、修理後の試運転も兼ねてです。湖水は100%近い満水で、ロケーションは最高の状態です。 深緑のブナの森にはエゾハルゼミの大合唱が響き渡ります。風は意外にカラッとしていて、ギラギラ太陽もそれほど気にならなくて快適でした。 花の種類もすっかり初夏の花に変わっていて、GWの頃からあっという間の季節の進み具合を感じます。 国境稜線の山々の残雪模様もすっかり小さくなりました。奥利根湖の貯水率はこれからどうなっていくでしょう。カヤックを楽しむなら今です。