2023

広島県・宮島~江田島シーカヤック2006

全漕航距離約23km 2006年9月16日~17日 台風が九州地方に接近中。明日には、上陸するらしい。それとは関係なく今日は秋雨前線の通過で、雨が降ったり止んだり。こんな気象状況で出航していいものだろうか。実は宮島で同窓会をするという計画があり、それではと宮島にはシーカヤックで渡って、厳島神社の大鳥居をくぐりそのまま瀬戸内海の小島へ漕ぎ出してみたいと考えた。ソロで漕ぐつもりだったけれど、幹事のTさんがカヤックに興味があり。2人艇のK2で一緒に漕ぐことにした。やる気さえあれば、初心者でも大丈夫。 同窓会当日、今回のカヤックパートナー、Tさんが広島空港で出迎えてくれる。地元のカヤックショップで海の情報を尋ねる。このショップ主催の2泊3日のツアーは、台風の影響で中止されたとのこと。宮島はベタベタ凪の宮島海峡の向かいに目と鼻の先。カヤックを組み立てた私たちの出航に合わせるかのように雨が止む。海峡には、牡蠣筏がいくつも浮かんでいる。初めての瀬戸内の海。カヤックで漕ぎ出す瞬間は感動である。 世界遺産の宮島・厳島神社と大鳥居。神の島だ。原生林に覆われ、海に注ぎ出す小さな沢は、無垢の透き通った流れ。もちろん、島を1周する道路などない。すぐ対岸の国道やJRや民家が密集する文明とは対照的だ。漁師が、20年前までは、スナメリが泳いでいたと教えてくれた。同窓会のみんなを順番に乗せて、7回くぐった。 翌朝、厳島神社に航海の安全を祈願する。そして、今宵の宿がある江田島に向けて漕ぎ出す。気象条件が良ければ宮島を反時計回りに廻るコースを漕ぐ計画だったが、台風がどんどん近づいている状況なので、最短ルートだ。 初心者Tさんは、調子よくパドリング。追い風にも助けられて、最大瞬間スピード10.5kmを記録。 途中2度、大型船の通過で海上待機。台風の雨による河川の氾濫で、海面は浮遊物だらけ。追い風は、まさに神風だったかもしれない。この海旅は、すべてミラクルだった。宮島から平均時速7キロで、ゴールの江田島にあるサンビーチ沖美の着く。午後台風の風向きはめまぐるしく変わり、やがて逆の向きに変わった。台風をやり過ごすために港に停泊できない大型船が次々と沖に浮かび始めた。 島から島へ渡る旅はシーカヤックの醍醐味でもある。いつかまた瀬戸内海の島々に訪れてみたいと思った。カヤックをたたみ、宿のレストランで嵐の前の不気味な静けさを漂わせる海を眺めながら、この海旅の成功をTさんと祝杯した。 翌日台風は通過したが、海は荒れていた。江田島の海軍兵学校は亡き叔父が終戦を迎えたところだそうで、見学をして帰路に着いた。

2004GW黒部源流BC3日目

2004年5月3日(3日目) 双六山荘~大ノマ乗越~大ノマ谷~新穂高温泉 昨夜、双六小屋は登山者で込み合っていて、私たちの夕食の時間は7時半だった。おかげで、遅い到着にも関わらず談話室でのんびりビールやお酒で到着祝いができた。初めは、この談話室で寝ることになると聞いていた。「ストーブの利いた談話室の方が暖かくてむしろ歓迎だよ」などと話していたが、予約していた人のキャンセルがあり、どうやら部屋で寝ることになった。 小屋には、この双六小屋主催のスキーツアーが今日から3泊の予定で来ていて、私たちも1992年頃から数回参加してお世話になっていた。そのリーダーのS先生に久しぶりに再会できた。双六小屋の主人は、若い息子さんに代わっていた。かつての教え子達が、こうやって今は自分たちの力でこの小屋へやって来たんだと、S先生が若主人に私たちを紹介してくれる。そういえば小屋も新しく改装されたし、小屋の主人が若くなって今の時代を反映しているのか、いろいろと新しいサービスが工夫がされているようだ。若主人をはじめ小屋の人たちの登山者への対応は、とても気持ちよい。 夜半から雨風が強くなり、どうやら天気は予報より早く崩れだした。朝になって雨は弱くなったが、風が強くガスで視界も悪い。昨日の強行軍もあり、私たちは西鎌尾根を縦走して飛騨沢を滑るルートをとうにあきらめていたが、双六岳に登って三段カールを寄り道することさえも断念せざる負えなかった。小屋の出発を遅らせ、沈滞を余儀なくされていたS先生と、かつての懐かしい思い出などを交えながら近況を語り合う。私たちももう一泊できればいいなあと思うけれど、家内は明日から仕事なのでどうしても下山しなくてはならない。S先生は、わざわざ外に出て私たちの出発を丁寧に見送ってくれた。 双六谷の滑り出しは、ガスで視界が利かなかったが、下るに従い風がなくなりガスも晴れた。標高差300mの大ノマ乗越への急斜面は、つぼ足で登る。稜線近くまで高度を上げると、またガスに閉ざされた。何人かの先行者を追い抜き、大ノマ乗越に立つ。後はもう下りだけだ。大ノマ谷大斜面の滑りは、ガスがなかなか晴れずもったいなかったが、標高差250m程滑り降りたところでようやく視界が広がった。山の上部は少雪だったが、下部は残雪が多いようで、雪はワサビ平小屋の先まで続いていた。3日目は天気が崩れたけれど、双六谷の滑りと合わせれば標高差1400mの滑りを楽しんで無事下山することができ、3日間のスキーツアーのフィナーレを迎えられた。黒部源流域への想いは、確実に心の中に芽生えていて、これから大きく夢が膨らんでいくような気がする。

2004GW黒部源流BC 2日目

2004年5月2日(2日目) 太郎小屋~北ノ俣岳~黒部五郎岳~五郎沢~源流出合~鷲羽乗越~弥助沢~樅沢~双六山荘 朝食をしっかりとって、7時前に小屋を出発した。今日も絶好のツアー日和だ。弁当をたのんで早立ちしたパーティーがあるようで、すでに北ノ俣岳近くの稜線には、いくつもの登山者の点々が認められる。北ノ俣岳方面へ縦走する人は、おそらくほとんどが黒部五郎小屋や双六小屋を目指す人だろう。先になったり後になったりしながら、これからの長い稜線を行くことになるだろう。1時間ほどで北ノ俣岳山頂に着いた。さっそく空身になって、薬師沢源頭の大斜面を一本滑り、昨日滑れなかったうっぷんを晴らす。もっともっと滑り降りて、源流の出合まで行ってみたいが、そんなことを考えれば人間の欲望は際限がないので、いい加減にしておかなければならない。 北ノ俣岳を越え、黒部五郎岳へと続く稜線を斜滑降で進む。今日の稜線伝いもウロコ板は快調に歩を進めることができる。何といっても、ささやかな下りをテレマークターンで滑ることができるというのがうれしい。シールを貼ったままの板では、そうはいかない。黒部五郎岳直下の急斜面に取り付くまで、そのような場所がいくつあったろう。 陽射しはあるが、風は昨日より冷たく頬に気持ちいい。遙かな山並みの向こうに、白山が勇壮に聳えているのがはっきりと見える。日程の都合で参加できなかった仲間の一人が、今日はその白山に登っていることだろう。 赤木岳をトラバースして、中俣乗越を過ぎ、いよいよ黒部五郎岳直下の急斜面では、板を脱いでつぼ足にせざる負えなかった。雪は以外と堅く、途中からシールの板も難しそうで、全員がスキーを担いでつぼ足になった。左足下には、山頂から馬沢への大斜面が広がっていた。ここもいつか滑ってみたいなあと思う。 11時頃、黒部五郎岳山頂に着く。途中一度遊んだだけなのに、やはり意外と時間はかかるものだ。360度さえぎるものもない大パノラマ。北アルプスの盟主ともいえる槍ヶ岳がはっきり見える。大きくえぐり取られたかのような大カール側には巨大なセッピが発達していて休んでいる場所もあまり安心できない。風も冷たく、せっかくの山頂だが、記念写真を撮って早々に出発することにする。 山頂から北方稜線をやや下り、大カールの北端から滑り降りる。雪が腐っていて、急斜面なので滑り辛い。だんだんと斜度が緩み始めると、気持ちよくテレマークウエーデルンでスピードを上げる。カール下端の大岩で大休止とした。私たち以外のパーティーはカールを途中からトラバース気味に黒部五郎小舎へ向かっていた。 ここで、進路の大きな決断をする。この大岩から広がる五郎沢の大斜面を前にして、三俣蓮華岳へと進んでこのまま素通りすることができようか。黒部五郎乗越から三俣蓮華岳への登りを考えれば、この五郎沢を源流出合まで滑り降りて、源流を遡って鷲羽乗越へ向かうのもそれほど遠回りではないのではないか。樅沢の標高差500mの登り返しはきついが、鷲羽乗越から弥助沢の標高差500mの滑降も楽しめる。双六小屋には日没までになんとか辿り着くことは出来るだろう。私たちは、ほとんどのパーティーが選ぶ三俣蓮華岳への稜線ルートを変更して、この五郎沢を滑ることを選んだ。 五郎沢の広大な斜面は、適度な斜度で本当に気持ちいい。やがて漏斗状になって、源流出合に降り立つまでは、今回の山行のハイライトな時間だったに違いない。 ここにやってくるまで1日半もかかったが、それだけに今までに味わったことのない山々の存在感を感じることができる。昨日神岡新道を歩き始めた時点で、そのような気分にはなっていたが、ここにきて私は確信した。野反の山々から黒部の山々へと、自分の山の世界観が新しく広がっていくようだ。永遠に続くかのような五郎沢の大斜面を滑り、雪渓の切れ目から清冽な水がほとばしる黒部源流を登り返し、周囲の名だたる山や谷を眺め回しながら、別天地のような黒部源流域の美しさにとにかく圧倒された。 源流出合から鷲羽乗越への登り返しは2時間ほどかかった。ここでもウロコ板は快適だった。流れはかなり上流まで行かないと雪渓の下にはならないが、広々とした谷なので困難な場所は全くない。雪渓上には、私たちと逆ルートのパーティーのシュプールが残されていた。三俣蓮華岳の北側にある沢筋の急斜面を滑り降りてきたらしい。またさらに進むと、源頭の二股にはテントがあって、彼等と挨拶を交わした。2泊して、この辺りを滑りまくると話していた。とてもうらやましい気もするが、明日から天気が崩れることがわかっているので、そのように思い通りにはいかないのではないか。しかし彼等も怪訝に思ったことだろう。こんなに遅い時間に我々の前を通り過ぎて、日が暮れるまでに双六小屋にたどり着けるのだろうかと。 岩苔乗越からの大斜面や祖父岳の急斜面にも、シュプールがつけられていた。祖父岳を登って雲ノ平へ足を伸ばしてみたら、もっともっと楽しいだろうなと思いながら、やっとのことで三俣山荘に辿り着く。時刻は3時半を回っていた。ゆっくりはしていられない。早々に弥助沢を滑り降りることにする。 弥助沢の本筋より一本西の小沢を滑る。弥助沢本筋には鷲羽岳からのシュプールがあった。標高差500mはあっという間だった。樅沢の出合午後4時。6時まで2時間あるので、この標高差500mの登りは何とかなるだろう。例年になく少雪で、樅沢を遡ってすぐ、小滝が雪渓から割れて出ていた。先行者の足跡に従って危なっかしいスノーブリッジを渡り、難なく越えることができた。 谷間は日も陰り、ただ黙々と登る。途中でウロコ板では歯が立たない斜度になったので、つぼ足に切り替える。予定の6時を数分過ぎて、双六小屋に無事到着した。小屋のある稜線には濃いガスが立ちこめ始め、雷鳥たちが盛んに活動していた。

2004GW黒部源流BC 1日目

黒部五郎岳の頂に立ったとき、別天地のような黒部源流域の美しさに息を飲んだ。永遠に続くかのように見える五郎沢は、山スキーヤーあこがれの地だと思った。そして雪渓の切れ目から清冽な水がほとばしる黒部源流を登り返し、周囲の名だたる山や谷を眺め回しながら、これまでとは桁外れの大きな山スキーの世界が広がっていくのを実感した。 2004年5月1日(1日目) 飛越トンネル~寺地山~稜線~太郎山~太郎平小屋 神岡新道の登山口は苦い思い出がある。というのも、以前避難小屋泊で北ノ俣岳スキー登山した際に、車上荒らしにあった経験があるからだ。下山後車を走らせて、「さあ温泉だ!飯だ!」って悠長な気分に浸っていたのもつかの間、一人が財布に入っていたお金から札だけがないと言い出したのだ。「ほんとか?」というわけで、車に財布を残していた全員が中身を調べたら、三台の車全部の財布から札だけが抜かれていたのである。車の様子はまったく変わりはなかった。車上荒らしの犯人は、その夜は帰ってこない登山者達だと知っていて、夜中に悠々と泥棒を働いていたに違いない。 2004年GW後半の初日は、素晴らしい五月晴れだった。飛越トンネル手前の車道は、入山者の車でひしめき合っていた。ザックは、できるだけ軽くしたつもりでも、肩にズシッとくる。これから北ノ俣岳直下の稜線まで、標高差1000m以上の登りが待っている。心なしかその重圧を感じながら、私たち夫婦と山仲間の総勢4人で車道をのたりのたりと歩き出す。 トンネル入口左側の登山口から登らず、小沢を挟んだ右側の斜面からつぼ足で取り付く。こちらの方が近道だが、神岡新道のある稜線に這い上がるだけで、大汗をかく。ほんとうに今日は日焼けが怖ろしいほどの上天気だ。ここからスキーをつける。緩い登りならシール要らずのウロコ付きテレマークスキー板は、強い陽射しでいい感じに融けたザラメ雪に良く喰い付いてぐんぐん登る。神岡新道は、寺地山の先の避難小屋までアップダウンがいくつも続くので、どうやらこのウロコ板を選んで正解だったようだ。 テレマークスキーというのは、昨今様々な種類のテレマーク板やブーツが売られていて、雪質やツアーコースなど用途によって、その性能をどのように引き出すかというところが面白いように思う。先週までは、短革靴にダブルキャンバーの細板で、尾瀬の至仏や野反の山々を軽快に滑り歩いた。しかし、北アルプス級の山となると、そのような道具ではやや頼りない気がして、シングルキャンバーでやや幅広のウロコ付きの板にプラブーツにした。プラブーツにしたのは、革靴だとどうしても靴の中が濡れてしまい、泊を伴う山行では不快だからだ。樹間を縫って登ったり滑り降りたり、面白いように先を進む。 ようやく辿り着いた稜線からは黒部源流の山々が一望できる。これから向かう太郎平小屋は、薬師岳のどっしりした山体の左下に、目を凝らさないとわからないほど小さな点である。振り返ると、明日の長い行程である黒部五郎岳や三俣蓮華岳への稜線が続く。時刻は4時を回っていた。歩き出しが9時半だったから、ここまで6時間半もかかってしまった。 午後5時過ぎ、太郎平小屋に到着した。小屋に入って、今夜の寝場所である蚕棚の下段に荷をほどき、すぐさま外に出て薬師岳を眺めながら、みんなで入山祝いの乾杯をした。5月ともなると陽も長くなる。日暮れまでまだ十分余裕もあり、ゆっくりやっていたので、小屋に戻るとすでに夕食が賑やかにはじまっていた。 2日目に続く

六合村~秋山郷スキー縦走

2008年4月5~6日  六合村・開善学校~上信国境稜線~岩菅山~烏帽子岳~笠法師山~切明温泉 地図を眺めながら未知のスキールートをイメージするのは楽しい。胸が躍るようなドキドキ感が高まり、休みの日が待ち遠しくなる。まして、そのルートが多くの山岳スキーヤーにも注目されず、記録も見たことがなければ、秘かに宝物を見つけたような気分だ。 裏岩菅山から秋山郷の切明温泉までの稜線は、スキー縦走としての記録を今まで見たことがなかった。するとブナ文庫という山岳図書蒐集家でもある山スキーの大先輩が、「スキーはないけどワカンならあるよ。」と、昭和42年の岳人242号の記事のコピーを送ってくれた。長野電鉄山岳部の記録で、小林紀美氏が執筆している。2月に、ワカンで東舘山から切明まで2泊3日で歩いていた。記録の終末で、筆者はこの縦走ルートがスキー向きでないと述べていた。 岩菅山から切明温泉へのスキー縦走は、春の締まった雪の時期なら、スキーを使えば1日でトレースできるにちがいない。そのために何年も前から、このエリアのルート偵察を地道に行ってきた。大高山登山口の馬止から国境稜線に入山して、ダン沢の頭から赤石山、さらに岩菅山くらいまでは身近なエリアなので頻繁に訪れることが出来た。しかしながら秋山郷の切明温泉から笠法師山のスキールート偵察は、秋山郷までの車のアプローチが大変だった。 この積雪期の笠法師山の記録もまた見たことが無かったので、何度か訪れてのゼロからのコース開拓だった。細尾根の迷いやすいコースだが、スキーを使うことによって、よりスピーディーに安全に下山出来ることがわかった。 スキー縦走の核心部は、なんといっても裏岩菅山と烏帽子岳の間にあるカニの横ばいの通過だ。ここは無雪期に一度縦走したことがあった。細尾根の稜線は積雪期に大きな雪庇が出来るといやらしそうだ。スキー縦走はぶっつけ本番になる。ここでどれだけ時間を費やすかにより成否が決まるのかなと思った。 決行の時は突然訪れるもので、2日前に週末の天気が安定することが分かったので、なんとなくやってみようということになった。 1日目、旧六合村の林道入り口から鷹巣尾根ルートで入山。赤石山の手前から寺子屋峰をショートカットして岩菅山手前のノッキリ付近へ魚野川横断。ノッキリでテント泊して2日目秋山郷へ縦走。カニの横ばいはシートラで稜線西側の斜面を難なく通過。これでもう難所はないと楽観していたらとんでもなかった。笠法師山手前に細尾根の急斜面が一ヵ所待ち受けていた。空身で登り細引きロープでザックやスキーを引き上げたりして、ちょっと苦労した。それでも予定通り明るいうちに下山。切明温泉の湯に浸かりながらバックカントリースキーツアーの小さな達成感に大満足した。

北ア薬師岳BC2005GW

2005年4月29~5月1日 今年は雪が多くて飛越トンネルの登山口までの林道歩きも長かった。朝からどんよりとした曇り空だったが、この後天気はますます崩れ、寺地山を過ぎる頃から雨、風、ガスの三重苦。北ノ俣から太郎小屋へのだだっ広い稜線はまったくのホワイトアウトの様である。 先行していた2人の登山者が、避難小屋が見つからないと困っていた。彼らはすっかり疲れ果てていて、避難小屋に泊まりたいようだった。以前泊まって場所に覚えがあるので、スキーでそれと感じる方へ歩いていくと、ガスの中にぼんやりと四角い影のようなものが浮かび上がってきた。でも、その影は幻影にも見えてくる。むやみに歩くことさえ現在地点がわからなくなる怖れのある濃いガスの中では、登山者の焦りが白い世界の中に悪魔を住まわせる危険があると思う。しかし、この影は紛れもない避難小屋であり、彼らはここで行動を終えた。私たちはこれからが勝負である。 北ノ俣岳の稜線への大斜面を登る。途中で若い山スキーヤーのペアが滑り降りてきた。稜線まで登って撤退したという。彼らは正解である。連休初日というわけで、稜線上には小屋へのトレースは期待できなそうだ。いよいよほんとうに自分のルーファイ力が試されるというわけだ。後ろから一人の若いテレマーカーが追いついてくる。つかず離れず稜線まで登り、稜線からは共に行動する。Bさんである彼とは、翌日一緒に薬師の尾根や谷を一緒に滑ることになるなるのだが、ホワイトアウトの不安の中、無事太郎小屋にたどり着け、その喜びを分かち合えた仲だからこそだろう。後から私たちのシュプールを追って来たAさんやCさんも・・・ 晴れていれば気持ちの良い滑降を楽しめたはずなのに、突然赤木平側のセッピ上に出たりして、ゆっくり斜滑降やボーゲンで滑るしかない。GPSと去年訪れたときの勘が頼りだ。しかしながら、ホワイトアウトの中を長時間彷徨っていると、GPSを本当に信じてしまって大丈夫だろうかという不安がよぎる。2576m小ピークで迷いが出る。地図も出せないほどに雨風が激しく、やはりGPSを信じて行動するしかないと覚悟する。 こんな天気だからこそ行動が活発になるのだろうか、雷鳥が進路の直ぐ先を強風にあおられながら走っていく。彼らにとっては、ホワイトアウトは天敵から守ってくれるありがたいものなんだろう。古いトレースを発見して安心。しかし所々で消え見失う。また、このトレースを信じて闇雲に追うのも危険だ。GPSと磁石の方角を頼りに、緩やかな稜線をひたすら下った。やがて緩やかな登り返しがある。去年歩いたときの覚えがあり、これはまさしく太郎山に向かっていることを確信。 午後4時半、太郎平小屋の真ん前に飛び出した。私たち3人のあと、テレマーカー1人、山スキーヤー1人、ボーダー2人が、小屋に辿りついた。この日は、他に取材で滞在している数人のグループだけで、小屋では、二晩をこたつのある食堂でゆったり静かに滞在できた。 翌日は最高のBC日和。1本目は避難小屋付近(2880m)から中央カールに滑り込む。2本目は金作谷カールを滑って大満足。3本目からはBさんも加わって、避難小屋付近(2880m)から広大な西斜面を大滑降。さらに4本目は休憩所下(2600m付近)から薬師沢右俣の急斜面に飛び込む。薬師岳への稜線を右に左に4本滑って、充実した中日だった。 3日目ははや天気が崩れるということで、朝食後北ノ俣岳を目指す。薬師沢へ滑り込んでみたかったが、空荷で北ノ俣岳から赤木平へ一気に滑り降りる。雪質も良く、とても気持ちよい大斜面だった。そして、さっさと下山にかかる。北ノ俣岳の大斜面の滑降は、今までの斜面が良すぎたのか、物足りなく感じた。避難小屋付近から寺地山へ登り返し、またいくつもの登り返しをしながら、やっとのことで飛越トンネルの登山口に滑り降りた。 最高な3日間だった。

2005GW銀山平~平ヶ岳カヤック&スキー後半

名前通りのだだっ広い山頂をうろこテレマークスキーで歩き回る。 奥利根源流の国境稜線や水長沢の源流、大白沢山へと続く国境稜線の様子を目に焼き付ける。 奥利根源流の雄大な風景を独り占め。かと思っていたら、尾瀬ヶ原ルートから山スキーの男女グループが近付いてきた。 正午ジャストに山頂から下山する。 下山は登り以上にスピーディーだ。池ノ岳の無木立の大斜面に大きなテレマークの円弧を描き、いくつもの小ピークも難なく乗り越えていく。 1695m峰まで1時間。ここからは細尾根に鬱蒼と茂る黒木がうるさくなり、一部かつぐところも出てくるが、いよいよ問題の沢の滑降にはいる。 源頭の急斜面はいたるところにクラックが入っていて、いつブロックや全層雪崩が起こるかわからない。何度も横滑りやキックターンを繰り返しながら、暑さなのか緊張感からなのか汗が噴き出してくる。 沢の滑降は見た目よりもずっと距離があり、1時間でようやく登山ルートの取り付き地点に戻った。 ベースキャンプまで1時間歩き、ようやく大休止。キャンプを撤収して、カヤックを2時間休みなしで漕ぎ、どうにか日暮れすれすれに出発地に辿りついた。 いつ割れるかわからなそうな不安定な氷の上に着岸して、完全に上陸してようやくひと心地がつけた。

2005GW銀山平~平ヶ岳カヤック&スキー前半

2005年5月4~5日 GW前半は北ア薬師岳へ。後半も天気に恵まれたので、カヤック&スキーで平ヶ岳へ。平ヶ岳はいつも鳩待峠から尾瀬ヶ原を横断して白沢山から県境稜線ルートばかり。 今回のコースは直前に突然インスピレーションがわいてチャレンジ。必要だと思う装備を車に詰め込んで、とりあえず関越道小出インターから奥只見の銀山湖までやって来た。 氷塊の浮かぶ北極海の海をカヤックで渡りながら、氷河を滑る旅なんて、なんて大きな冒険だろう。ちょっと創造力を働かしてみたら、そんな果てしない大きな夢のかけらほどだけど、小さな小さな冒険が実現した。今までにも何度も訪れていた山上の巨大ダム湖だ。 いきなり漕ぐことはできないのだ!海の上以外のシーカヤックは、陸の上の魚みたいなものだというのは先入観である。スキー道具やらキャンプ道具やらで、本体の重量もあわせて60kg以上あろうかというのに、氷のような堅い雪の上ならそりになるのだ。こうして湖までカヤックを引っ張っていく・・・ 湖にカヤックを浮かべ漕ぎ出す。ちょっと日本離れしているこの景色。雪山をバックにして氷塊が漂い、行ったことも見たこともない北極海のフィヨルドの海はこんな景色じゃないかと、勝手に想像してしまう。時速7kmで快調に湖の最奥部のベースキャンプを目指す。もう探検家気分なのだ。 大小の沢が入り組んだフィヨルドのような地形。地図だけでは、初めての人ならどこか違う入り江に迷い込んでしまうかもしれない。もちろん自分自身は通い慣れたフィールドだから迷うべくもないけど、今までと違うこの白い景色の中で漕いでいると、未知の海を探検しているかのような夢を見たくなる。 2時間ほどでベースキャンプ地に上陸。湖岸はどこも雪原だった。水位が変化しなければ問題ないけれど、雪解けの多い時期なのでちょっと不安になる。増水しても逃げ場がある場所にテントを張る。 残念なことにエアマットを忘れた。落ちている針葉樹の枯れ枝などをマット代わりにしたが、冷気は防ぎようもなくて一晩中寒くて眠れなかった。翌朝、テントにもカヤックにも霜がびっしり付いていた。 5時にウロコ板スキーで歩き出す。平ヶ岳登山ルートの核心部は、取り付きの細尾根である。最初に取り付いた尾根は見事にはずれ、2時間弱のタイムロス。1本沢をはさんだ向かいの尾根をルートにとる。こちらが狙いのルートだった。 細い尾根をウロコ板やツボでグングン高度を上げる。やがてまわりを一望できるようなってくると、デブリやクラックがいたるところにある右の沢が、帰りの下山ルートとして使えそうなことがわかり一安心。かなりの時間短縮ができる。 なんとか稜線に辿りつくことができ一安心だ。稜線に上がると、そこからは上り下りの緩やかな尾根歩き。クロカンテレマークのスキーヤーにとって、もっとも得意とするところだ。 登っては滑りを繰り返し、いくつもの小ピークを越えていく。歩きなら、とても日帰り登山は無理だろう。目指す平ヶ岳は遙か彼方だ。静かな黒木の森の中を軽快に飛ばしながら、清々しい春風を感じる。 右に左にと遙か彼方に見覚えのある白い山々が眺められる。休憩など朝の5時からほとんど無しで、歩きっぱなしである。しかし、いくらでも歩ける気分だ。目指す平ヶ岳も、やがて眼前に大きく横たわるかのように現れた。 ようやく平ヶ岳が近くに感じられる距離となってきた。ほとんど樹木のない真っ白い大斜面に取り付いて、ウロコをきかせてひたすら登っていく。 平ヶ岳の前衛峰である池ノ岳(2090m)に立ったとき、平ヶ岳の山の大きさに圧倒される。山頂を踏まなくても、この景色を眺めるだけで十分だと思う。 でも、まだ正午まで小一時間あるので、行ってみることにした。 ベースキャンプから6時間45分。登山ルートの取り付き地点から3時間45分、ついに平ヶ岳山頂に立つ。不安と苦闘から解放されて至福のひとときだ。 だだっ広い山頂を歩き回る。カヤックで渡った銀山湖も眺められた。 続く

登山道が廃道だった頃の大高山の話

1992年2月 2000m前後の上信越国境の山々が野反湖を中心として東は三国峠、西は志賀高原へと連なっている。大高山は、野反湖から西へ志賀高原の赤石山へと続く国境稜線上の中間あたりに、2079mの高さで聳えている。草津温泉から眺められる大高山には、いかにもスキーに適した広いなだらかな尾根を見つけることができる。マイナーな山域であり、ここを誰かが滑ったという記録は知らない。かつて整備されたことがあるという国境稜線の登山道は、大きな台風で荒廃したまま藪の中に埋もれてしまっているようだ。地形図にある点線の登山道を頼りに、昨年の夏と秋に一度ずつ大高山への偵察を試みたが、まだ湯気が出ていそうな熊の大きな糞に驚かされたり身動きが取れなくなるほどの藪に阻まれるばかりで、大した収穫は無かった。それでも大高山直下には五三郎小屋という立派な避難小屋があるはずなので、かつては整備された登山道がしっかりあったようだ。現在その小屋がどういう状況なのか、わたしの周りでは知っている人もいなくて、どうやら地元でも最近は登った人がいないようだ。 今回は、鬱陶しい藪を雪が隠してくれる厳冬期に、スキーを活用して大高山に登頂し、まだ誰にも滑られたことが無いであろう尾根のスキー滑降を試みるべく、1泊2日の予定で林道入り口から出発した。 土曜日の午後1時半過ぎ、ここから続く林道の終点でテントを設営することにする。天気は、雪がちらつき寒い。強い冬型である。視界もあまり利かず、明日の行動が不安であるが、天気予報によれば少しずつよくなるというので決行する。同行の仲間はクロスカントリースキーだ。テレマークスキーよりもさらに軽快そうに先を歩く。ガラン沢が左に険しく切れ落ちている林道を1時間半歩き、今日のテン場についた。テントを設営した後、明日のルートを少しでも確認しておくため、偵察に出かける。ここからは地図にも出ている古い登山道を辿りたいのだが、いかんせん藪が相当ひどいようで1メートルあまりの積雪でも埋まり切っていない。甘い考えだった。すぐにひどい藪に進退窮まって仕方なく深く切れ込んでいるミドノ沢へ降りることにした。沢の渡渉は問題無く、飛び石伝いに渡って対岸の雪壁を攀じ登る。面倒くさいルートになったが、沢を渡ってしまえばこの先は単調な尾根歩きなので、今日はここまでとする。 翌朝8時過ぎに出発。国境稜線の山々はガスっているけど、南の空は雲もなくよく晴れている。目指す大高山は望めないがそのうちそのどっしりとした姿を現してくれるだろう。すんなりミドノ沢をまたいで、今は手入れもされず忘れ去られてしまったようなカラマツの植林地のなだらかな尾根に立つ。ここからはとにかく忠実に尾根筋を登るのだ。1500m付近よりカラマツの植林地からブナやナラの原生林に変わる。何百年という樹齢のブナやミズナラの大木は、身震いするほどに美しいと思う。登るにしたがい展望がどんどん開け、植生がダケカンバの疎林などに変わる。右に八間山が全貌を現し始め、後ろには浅間山が雄大な姿を誇示する。そして左には一ツ石と呼ばれる1825mの小ピークと2039mのダン沢の頭が間近に迫ってくる。いつの間にかガスが晴れ、真っ青な空が眩しくなってきた。私たちの突然の侵入に驚いたのであろう、つい今しがた駆け上がっていったウサギの足跡が新雪に生々しく刻まれていた。 ミドノ平の手前の1810mの小ピークを越えるとアオモリトドマツの林に変わる。風が強く吹くようになる。天狗平で昼食をとり、12時半頃出発。大高山への最後の登りだ。ミドノ平のちょっとした雪原を横切り、稜線に取り付く。稜線に立つと、魚野川に荒々しく切れ落ちている岩菅山の白い山肌が望まれ、このあたりの自然の厳しさを物語っているように感じた。あと標高差は300m弱。重い湿雪のラッセルに悩まされながら、1時40分登頂した。 私にとっては、初めてのピーク。パノラマを堪能した。さて待望のスキー滑降だったが、気温が上昇してのりのようにベトつく悪雪となってしまい、ほとんど直滑降となってしまった。しかし西向きの斜面でかろうじてサラサラの粉雪が残っていて、きれいなテレマークターンが決まった。仲間はクロスカントリースキーなので、滑降では苦労しているようだが、それでも器用に下りてくるもんだ。

高間山の思い出話

今は林道で楽に高間峠までやって来れる。峠からさらに山頂まで整備された登山道があって15分くらいで山頂に立てることだろう。高間山というと、30年くらい前の林道吾嬬山線が建設中の頃の話が思い出される。高間山は、六合村と長野原町と吾妻町の3町村境界にある1341.7mの小さな山だが、この辺りでは1番標高が高く、1度登ってみたかった。 高間集落あたりから高間山への登山道があるらしいので、探しに来たことがあった。今ではもう藪の中からも昔の開拓農家の残骸は見つからなくなってしまったが、その時はまだいくつかあった。最終人家の倉庫の中で花インゲンの皮むきをしていたおじいさんに聞いてみることにした。ちょっと耳が遠くて説明するのに手間取ったが、話が理解できると親切に教えてくれた。高間山への登山道はこの下の左へ行く道だそうだ。な~んだそうだったのか。ついでに王城山への道もあるか聞いてみたら、さらに水平に行けばあるという。やっぱ土地の古老は何でも知ってる!丁寧に礼を言って出発しようとしたら、おじいさんはわざわざ道まで出てきて、さらに人なつこく同じことを説明してくれ、人情の深さに感激。しかし行かねばならない。何度も丁寧に礼を言って、出発した。 北風が汗ばんだ身体に気持ちよく、どんどん進んで行く登山道入り口らしきものはいつまでたってもない。林道がこのまま行くと長野原町の貝瀬へ下っていってしまうだろうという地点でストップ。登山道らしき獣道やら仕事道を探し回るが、どれも違う。おじいさんこれはどういうこと!そういえば、途中で畑仕事をしていた別のおじいさんがいたっけ。ようし、その人に聞いてみよう。てけてけ来た道を戻る。収穫の終わった花インゲン畑で、なにやら仕事中のおじいさんがいた。大きな声で「高間山の登山道はどこですか。」と聞いてみた。おじいさんは怪訝な顔をしている。どうも意味が通じないのかと思い、わかりやすくゆっくり、「高間山に登りたいのですが、高間山の登山道の入り口はどこですかあ。」と聞く。するとおじいさんはなんと「ここが高間山だ。ここら一帯すべて高間山と言うんだ。」と答えた。なかなかこちらの意味が通じないようなのでしつこく聞き返すと、最後にこの辺り一帯の山はすべて高間山と言うんだと煙に巻かれてしまった。 まだあきらめるわけにはいかないので、「じゃあ、登山道の入り口はどこですか。」と切り返してみた。すると、「登山道の入り口はこのずっと下の広池というところだ。みんなそこから登るんだ。」と、またもやあっと驚く言葉が返ってきた。なるほど国道292号線沿いの広池集落から山腹のここまで心細い村道が上がってきているのだが、考えようによってはその通りだ。珍名答に思わず納得しそうになって唸ってしまった。 最後の粘りでもう一度丁寧に聞いてみた。「高間山の山頂へ行く登山道なんですが、どこですか。」と。そしたらなんと「それはない!」という答えが返ってきた。高間山山頂へ行くには、ちゃんとした登山道はなく、沢か尾根を適当に登って行くしかないとのこと。「昔はあったが、そんな道はもうなくて、知ってるのは年寄りくれえだ。わしも年寄りだけど、もっと年寄りだ。」 そんな高間山頂には、その後雪の時期に気の合う相棒と初めて立った。