本棚に浦松佐美太郎の「たった一人の山」という文庫の本があった。自分でもいつ買ったのか忘れてしまっていた。わずか200円の定価がつけられていて、カバーに鉛筆で130と書いてあるところから、私はそれを130円で手に入れたようだ。1975年の版なのでかなり日に焼けていて、安っぽく感じられる。しかし開いてみると、題名から想像する期待に背かなかった。1901年生まれの浦松氏は、1929年前人未踏のアルプスのルートを攀じ、自らアルピニズムを実践して日本にアルピニズムを紹介した偉大な登山家である。本の題名にもなっている「たった一人の山」や「頂上へ」などアルプスの山々の文章が読み応えがあるという人が多いかもしれないが、私はそれよりも「冬の山々」や「銀線を描く」、「雪」などの随想に惹かれた。特に「山の雨」には私の心にしみた文章があった。
 
「雨は山へ登るものにとっては、嫌なものに違いない。幾日も、雨に降り込められているときなぞ、また今日も雨かと、うんざりしてしまうものだが、思い切っていらだたしい気持ちを抑えてしまえば、全く違った境地に立って、山を静かに眺めることができる。
 雨の音しか聞こえない。そんな静かな日に、滴する谷の緑を眺めていると、旅のあわれとでもいうような、かすかなさびしささえ心に感じる。山水という、言葉のニュアンスが、心に近近と味わわれる。
 山水という、いかにも、床の間の中にでも納まってしまいそうな、この優しい言葉から受ける感じは、燃えるような、日の光の中に立つ山の姿ではない、霧に霞み雨に煙る山の姿である。
 こんな風に考えてくると、登るときにはやっかいなこの雨も、山にとってはふさわしいもののようにさえ思われる。山と雨と、山へ行く誰しもが、この二つに結んで、いろいろの思い出をもっていることと思う。まして自分でも、雨男と思うくらい、雨に出会っている私には、山の思い出をたどっていくということは、今一度、雨の中をくぐってゆく心地がする。」以上抜粋
 
小屋の軒下で、冷たい雨の滴をよけながら、これからまた帰り道をびしょ濡れになって進まねばならないあのやるせない気持ちも、今となっては懐かしい心地よさとして突然よみがえってきたりする・・・

 海だったら何だろう・・・ シーカヤッキングで一番厄介なのは風だろう。雨が降っていたって風がなければ楽なもんだ。晴れていたって風が強ければ海には出られない。知床で体験した気まぐれな風には、心身ともに痛めつけられたもんだ。しかし私たち旅人は悠長なもんだ。漁師は命を張って大自然の猛威に向き合い、仕事をしなければならない。 有島武郎の「生まれいずる悩み」の中に出てくる、冬の海の岩内の漁師たちの姿は凄いの一語につきる。生きるためといっても、今の世の中だったら考えられない地獄だと思った。

「雪のために薄くぼかされた真っ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つようにちらりちらり白い波頭が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増していった。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫を波の方へ向けることもしないで、力無く漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思い切り背伸びした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりをうってどうとくずれこんだ。
 はっと思ったその時遅く、君らはもう真っ白な泡に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして転覆した船体にしがみつこうともがいていた。」     

 シーカヤッキングでこんな風に出遭ったらひとたまりもない。風が強く吹く日は、陸でひたすら風が止むまで待つのだ!

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

CAPTCHA


This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.