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2004GW黒部源流BC 2日目

2004年5月2日(2日目) 太郎小屋~北ノ俣岳~黒部五郎岳~五郎沢~源流出合~鷲羽乗越~弥助沢~樅沢~双六山荘 朝食をしっかりとって、7時前に小屋を出発した。今日も絶好のツアー日和だ。弁当をたのんで早立ちしたパーティーがあるようで、すでに北ノ俣岳近くの稜線には、いくつもの登山者の点々が認められる。北ノ俣岳方面へ縦走する人は、おそらくほとんどが黒部五郎小屋や双六小屋を目指す人だろう。先になったり後になったりしながら、これからの長い稜線を行くことになるだろう。1時間ほどで北ノ俣岳山頂に着いた。さっそく空身になって、薬師沢源頭の大斜面を一本滑り、昨日滑れなかったうっぷんを晴らす。もっともっと滑り降りて、源流の出合まで行ってみたいが、そんなことを考えれば人間の欲望は際限がないので、いい加減にしておかなければならない。 北ノ俣岳を越え、黒部五郎岳へと続く稜線を斜滑降で進む。今日の稜線伝いもウロコ板は快調に歩を進めることができる。何といっても、ささやかな下りをテレマークターンで滑ることができるというのがうれしい。シールを貼ったままの板では、そうはいかない。黒部五郎岳直下の急斜面に取り付くまで、そのような場所がいくつあったろう。 陽射しはあるが、風は昨日より冷たく頬に気持ちいい。遙かな山並みの向こうに、白山が勇壮に聳えているのがはっきりと見える。日程の都合で参加できなかった仲間の一人が、今日はその白山に登っていることだろう。 赤木岳をトラバースして、中俣乗越を過ぎ、いよいよ黒部五郎岳直下の急斜面では、板を脱いでつぼ足にせざる負えなかった。雪は以外と堅く、途中からシールの板も難しそうで、全員がスキーを担いでつぼ足になった。左足下には、山頂から馬沢への大斜面が広がっていた。ここもいつか滑ってみたいなあと思う。 11時頃、黒部五郎岳山頂に着く。途中一度遊んだだけなのに、やはり意外と時間はかかるものだ。360度さえぎるものもない大パノラマ。北アルプスの盟主ともいえる槍ヶ岳がはっきり見える。大きくえぐり取られたかのような大カール側には巨大なセッピが発達していて休んでいる場所もあまり安心できない。風も冷たく、せっかくの山頂だが、記念写真を撮って早々に出発することにする。 山頂から北方稜線をやや下り、大カールの北端から滑り降りる。雪が腐っていて、急斜面なので滑り辛い。だんだんと斜度が緩み始めると、気持ちよくテレマークウエーデルンでスピードを上げる。カール下端の大岩で大休止とした。私たち以外のパーティーはカールを途中からトラバース気味に黒部五郎小舎へ向かっていた。 ここで、進路の大きな決断をする。この大岩から広がる五郎沢の大斜面を前にして、三俣蓮華岳へと進んでこのまま素通りすることができようか。黒部五郎乗越から三俣蓮華岳への登りを考えれば、この五郎沢を源流出合まで滑り降りて、源流を遡って鷲羽乗越へ向かうのもそれほど遠回りではないのではないか。樅沢の標高差500mの登り返しはきついが、鷲羽乗越から弥助沢の標高差500mの滑降も楽しめる。双六小屋には日没までになんとか辿り着くことは出来るだろう。私たちは、ほとんどのパーティーが選ぶ三俣蓮華岳への稜線ルートを変更して、この五郎沢を滑ることを選んだ。 五郎沢の広大な斜面は、適度な斜度で本当に気持ちいい。やがて漏斗状になって、源流出合に降り立つまでは、今回の山行のハイライトな時間だったに違いない。 ここにやってくるまで1日半もかかったが、それだけに今までに味わったことのない山々の存在感を感じることができる。昨日神岡新道を歩き始めた時点で、そのような気分にはなっていたが、ここにきて私は確信した。野反の山々から黒部の山々へと、自分の山の世界観が新しく広がっていくようだ。永遠に続くかのような五郎沢の大斜面を滑り、雪渓の切れ目から清冽な水がほとばしる黒部源流を登り返し、周囲の名だたる山や谷を眺め回しながら、別天地のような黒部源流域の美しさにとにかく圧倒された。 源流出合から鷲羽乗越への登り返しは2時間ほどかかった。ここでもウロコ板は快適だった。流れはかなり上流まで行かないと雪渓の下にはならないが、広々とした谷なので困難な場所は全くない。雪渓上には、私たちと逆ルートのパーティーのシュプールが残されていた。三俣蓮華岳の北側にある沢筋の急斜面を滑り降りてきたらしい。またさらに進むと、源頭の二股にはテントがあって、彼等と挨拶を交わした。2泊して、この辺りを滑りまくると話していた。とてもうらやましい気もするが、明日から天気が崩れることがわかっているので、そのように思い通りにはいかないのではないか。しかし彼等も怪訝に思ったことだろう。こんなに遅い時間に我々の前を通り過ぎて、日が暮れるまでに双六小屋にたどり着けるのだろうかと。 岩苔乗越からの大斜面や祖父岳の急斜面にも、シュプールがつけられていた。祖父岳を登って雲ノ平へ足を伸ばしてみたら、もっともっと楽しいだろうなと思いながら、やっとのことで三俣山荘に辿り着く。時刻は3時半を回っていた。ゆっくりはしていられない。早々に弥助沢を滑り降りることにする。 弥助沢の本筋より一本西の小沢を滑る。弥助沢本筋には鷲羽岳からのシュプールがあった。標高差500mはあっという間だった。樅沢の出合午後4時。6時まで2時間あるので、この標高差500mの登りは何とかなるだろう。例年になく少雪で、樅沢を遡ってすぐ、小滝が雪渓から割れて出ていた。先行者の足跡に従って危なっかしいスノーブリッジを渡り、難なく越えることができた。 谷間は日も陰り、ただ黙々と登る。途中でウロコ板では歯が立たない斜度になったので、つぼ足に切り替える。予定の6時を数分過ぎて、双六小屋に無事到着した。小屋のある稜線には濃いガスが立ちこめ始め、雷鳥たちが盛んに活動していた。

2004GW黒部源流BC 1日目

黒部五郎岳の頂に立ったとき、別天地のような黒部源流域の美しさに息を飲んだ。永遠に続くかのように見える五郎沢は、山スキーヤーあこがれの地だと思った。そして雪渓の切れ目から清冽な水がほとばしる黒部源流を登り返し、周囲の名だたる山や谷を眺め回しながら、これまでとは桁外れの大きな山スキーの世界が広がっていくのを実感した。 2004年5月1日(1日目) 飛越トンネル~寺地山~稜線~太郎山~太郎平小屋 神岡新道の登山口は苦い思い出がある。というのも、以前避難小屋泊で北ノ俣岳スキー登山した際に、車上荒らしにあった経験があるからだ。下山後車を走らせて、「さあ温泉だ!飯だ!」って悠長な気分に浸っていたのもつかの間、一人が財布に入っていたお金から札だけがないと言い出したのだ。「ほんとか?」というわけで、車に財布を残していた全員が中身を調べたら、三台の車全部の財布から札だけが抜かれていたのである。車の様子はまったく変わりはなかった。車上荒らしの犯人は、その夜は帰ってこない登山者達だと知っていて、夜中に悠々と泥棒を働いていたに違いない。 2004年GW後半の初日は、素晴らしい五月晴れだった。飛越トンネル手前の車道は、入山者の車でひしめき合っていた。ザックは、できるだけ軽くしたつもりでも、肩にズシッとくる。これから北ノ俣岳直下の稜線まで、標高差1000m以上の登りが待っている。心なしかその重圧を感じながら、私たち夫婦と山仲間の総勢4人で車道をのたりのたりと歩き出す。 トンネル入口左側の登山口から登らず、小沢を挟んだ右側の斜面からつぼ足で取り付く。こちらの方が近道だが、神岡新道のある稜線に這い上がるだけで、大汗をかく。ほんとうに今日は日焼けが怖ろしいほどの上天気だ。ここからスキーをつける。緩い登りならシール要らずのウロコ付きテレマークスキー板は、強い陽射しでいい感じに融けたザラメ雪に良く喰い付いてぐんぐん登る。神岡新道は、寺地山の先の避難小屋までアップダウンがいくつも続くので、どうやらこのウロコ板を選んで正解だったようだ。 テレマークスキーというのは、昨今様々な種類のテレマーク板やブーツが売られていて、雪質やツアーコースなど用途によって、その性能をどのように引き出すかというところが面白いように思う。先週までは、短革靴にダブルキャンバーの細板で、尾瀬の至仏や野反の山々を軽快に滑り歩いた。しかし、北アルプス級の山となると、そのような道具ではやや頼りない気がして、シングルキャンバーでやや幅広のウロコ付きの板にプラブーツにした。プラブーツにしたのは、革靴だとどうしても靴の中が濡れてしまい、泊を伴う山行では不快だからだ。樹間を縫って登ったり滑り降りたり、面白いように先を進む。 ようやく辿り着いた稜線からは黒部源流の山々が一望できる。これから向かう太郎平小屋は、薬師岳のどっしりした山体の左下に、目を凝らさないとわからないほど小さな点である。振り返ると、明日の長い行程である黒部五郎岳や三俣蓮華岳への稜線が続く。時刻は4時を回っていた。歩き出しが9時半だったから、ここまで6時間半もかかってしまった。 午後5時過ぎ、太郎平小屋に到着した。小屋に入って、今夜の寝場所である蚕棚の下段に荷をほどき、すぐさま外に出て薬師岳を眺めながら、みんなで入山祝いの乾杯をした。5月ともなると陽も長くなる。日暮れまでまだ十分余裕もあり、ゆっくりやっていたので、小屋に戻るとすでに夕食が賑やかにはじまっていた。 2日目に続く

六合村~秋山郷スキー縦走

2008年4月5~6日  六合村・開善学校~上信国境稜線~岩菅山~烏帽子岳~笠法師山~切明温泉 地図を眺めながら未知のスキールートをイメージするのは楽しい。胸が躍るようなドキドキ感が高まり、休みの日が待ち遠しくなる。まして、そのルートが多くの山岳スキーヤーにも注目されず、記録も見たことがなければ、秘かに宝物を見つけたような気分だ。 裏岩菅山から秋山郷の切明温泉までの稜線は、スキー縦走としての記録を今まで見たことがなかった。するとブナ文庫という山岳図書蒐集家でもある山スキーの大先輩が、「スキーはないけどワカンならあるよ。」と、昭和42年の岳人242号の記事のコピーを送ってくれた。長野電鉄山岳部の記録で、小林紀美氏が執筆している。2月に、ワカンで東舘山から切明まで2泊3日で歩いていた。記録の終末で、筆者はこの縦走ルートがスキー向きでないと述べていた。 岩菅山から切明温泉へのスキー縦走は、春の締まった雪の時期なら、スキーを使えば1日でトレースできるにちがいない。そのために何年も前から、このエリアのルート偵察を地道に行ってきた。大高山登山口の馬止から国境稜線に入山して、ダン沢の頭から赤石山、さらに岩菅山くらいまでは身近なエリアなので頻繁に訪れることが出来た。しかしながら秋山郷の切明温泉から笠法師山のスキールート偵察は、秋山郷までの車のアプローチが大変だった。 この積雪期の笠法師山の記録もまた見たことが無かったので、何度か訪れてのゼロからのコース開拓だった。細尾根の迷いやすいコースだが、スキーを使うことによって、よりスピーディーに安全に下山出来ることがわかった。 スキー縦走の核心部は、なんといっても裏岩菅山と烏帽子岳の間にあるカニの横ばいの通過だ。ここは無雪期に一度縦走したことがあった。細尾根の稜線は積雪期に大きな雪庇が出来るといやらしそうだ。スキー縦走はぶっつけ本番になる。ここでどれだけ時間を費やすかにより成否が決まるのかなと思った。 決行の時は突然訪れるもので、2日前に週末の天気が安定することが分かったので、なんとなくやってみようということになった。 1日目、旧六合村の林道入り口から鷹巣尾根ルートで入山。赤石山の手前から寺子屋峰をショートカットして岩菅山手前のノッキリ付近へ魚野川横断。ノッキリでテント泊して2日目秋山郷へ縦走。カニの横ばいはシートラで稜線西側の斜面を難なく通過。これでもう難所はないと楽観していたらとんでもなかった。笠法師山手前に細尾根の急斜面が一ヵ所待ち受けていた。空身で登り細引きロープでザックやスキーを引き上げたりして、ちょっと苦労した。それでも予定通り明るいうちに下山。切明温泉の湯に浸かりながらバックカントリースキーツアーの小さな達成感に大満足した。

北ア薬師岳BC2005GW

2005年4月29~5月1日 今年は雪が多くて飛越トンネルの登山口までの林道歩きも長かった。朝からどんよりとした曇り空だったが、この後天気はますます崩れ、寺地山を過ぎる頃から雨、風、ガスの三重苦。北ノ俣から太郎小屋へのだだっ広い稜線はまったくのホワイトアウトの様である。 先行していた2人の登山者が、避難小屋が見つからないと困っていた。彼らはすっかり疲れ果てていて、避難小屋に泊まりたいようだった。以前泊まって場所に覚えがあるので、スキーでそれと感じる方へ歩いていくと、ガスの中にぼんやりと四角い影のようなものが浮かび上がってきた。でも、その影は幻影にも見えてくる。むやみに歩くことさえ現在地点がわからなくなる怖れのある濃いガスの中では、登山者の焦りが白い世界の中に悪魔を住まわせる危険があると思う。しかし、この影は紛れもない避難小屋であり、彼らはここで行動を終えた。私たちはこれからが勝負である。 北ノ俣岳の稜線への大斜面を登る。途中で若い山スキーヤーのペアが滑り降りてきた。稜線まで登って撤退したという。彼らは正解である。連休初日というわけで、稜線上には小屋へのトレースは期待できなそうだ。いよいよほんとうに自分のルーファイ力が試されるというわけだ。後ろから一人の若いテレマーカーが追いついてくる。つかず離れず稜線まで登り、稜線からは共に行動する。Bさんである彼とは、翌日一緒に薬師の尾根や谷を一緒に滑ることになるなるのだが、ホワイトアウトの不安の中、無事太郎小屋にたどり着け、その喜びを分かち合えた仲だからこそだろう。後から私たちのシュプールを追って来たAさんやCさんも・・・ 晴れていれば気持ちの良い滑降を楽しめたはずなのに、突然赤木平側のセッピ上に出たりして、ゆっくり斜滑降やボーゲンで滑るしかない。GPSと去年訪れたときの勘が頼りだ。しかしながら、ホワイトアウトの中を長時間彷徨っていると、GPSを本当に信じてしまって大丈夫だろうかという不安がよぎる。2576m小ピークで迷いが出る。地図も出せないほどに雨風が激しく、やはりGPSを信じて行動するしかないと覚悟する。 こんな天気だからこそ行動が活発になるのだろうか、雷鳥が進路の直ぐ先を強風にあおられながら走っていく。彼らにとっては、ホワイトアウトは天敵から守ってくれるありがたいものなんだろう。古いトレースを発見して安心。しかし所々で消え見失う。また、このトレースを信じて闇雲に追うのも危険だ。GPSと磁石の方角を頼りに、緩やかな稜線をひたすら下った。やがて緩やかな登り返しがある。去年歩いたときの覚えがあり、これはまさしく太郎山に向かっていることを確信。 午後4時半、太郎平小屋の真ん前に飛び出した。私たち3人のあと、テレマーカー1人、山スキーヤー1人、ボーダー2人が、小屋に辿りついた。この日は、他に取材で滞在している数人のグループだけで、小屋では、二晩をこたつのある食堂でゆったり静かに滞在できた。 翌日は最高のBC日和。1本目は避難小屋付近(2880m)から中央カールに滑り込む。2本目は金作谷カールを滑って大満足。3本目からはBさんも加わって、避難小屋付近(2880m)から広大な西斜面を大滑降。さらに4本目は休憩所下(2600m付近)から薬師沢右俣の急斜面に飛び込む。薬師岳への稜線を右に左に4本滑って、充実した中日だった。 3日目ははや天気が崩れるということで、朝食後北ノ俣岳を目指す。薬師沢へ滑り込んでみたかったが、空荷で北ノ俣岳から赤木平へ一気に滑り降りる。雪質も良く、とても気持ちよい大斜面だった。そして、さっさと下山にかかる。北ノ俣岳の大斜面の滑降は、今までの斜面が良すぎたのか、物足りなく感じた。避難小屋付近から寺地山へ登り返し、またいくつもの登り返しをしながら、やっとのことで飛越トンネルの登山口に滑り降りた。 最高な3日間だった。

2005GW銀山平~平ヶ岳カヤック&スキー後半

名前通りのだだっ広い山頂をうろこテレマークスキーで歩き回る。 奥利根源流の国境稜線や水長沢の源流、大白沢山へと続く国境稜線の様子を目に焼き付ける。 奥利根源流の雄大な風景を独り占め。かと思っていたら、尾瀬ヶ原ルートから山スキーの男女グループが近付いてきた。 正午ジャストに山頂から下山する。 下山は登り以上にスピーディーだ。池ノ岳の無木立の大斜面に大きなテレマークの円弧を描き、いくつもの小ピークも難なく乗り越えていく。 1695m峰まで1時間。ここからは細尾根に鬱蒼と茂る黒木がうるさくなり、一部かつぐところも出てくるが、いよいよ問題の沢の滑降にはいる。 源頭の急斜面はいたるところにクラックが入っていて、いつブロックや全層雪崩が起こるかわからない。何度も横滑りやキックターンを繰り返しながら、暑さなのか緊張感からなのか汗が噴き出してくる。 沢の滑降は見た目よりもずっと距離があり、1時間でようやく登山ルートの取り付き地点に戻った。 ベースキャンプまで1時間歩き、ようやく大休止。キャンプを撤収して、カヤックを2時間休みなしで漕ぎ、どうにか日暮れすれすれに出発地に辿りついた。 いつ割れるかわからなそうな不安定な氷の上に着岸して、完全に上陸してようやくひと心地がつけた。

2005GW銀山平~平ヶ岳カヤック&スキー前半

2005年5月4~5日 GW前半は北ア薬師岳へ。後半も天気に恵まれたので、カヤック&スキーで平ヶ岳へ。平ヶ岳はいつも鳩待峠から尾瀬ヶ原を横断して白沢山から県境稜線ルートばかり。 今回のコースは直前に突然インスピレーションがわいてチャレンジ。必要だと思う装備を車に詰め込んで、とりあえず関越道小出インターから奥只見の銀山湖までやって来た。 氷塊の浮かぶ北極海の海をカヤックで渡りながら、氷河を滑る旅なんて、なんて大きな冒険だろう。ちょっと創造力を働かしてみたら、そんな果てしない大きな夢のかけらほどだけど、小さな小さな冒険が実現した。今までにも何度も訪れていた山上の巨大ダム湖だ。 いきなり漕ぐことはできないのだ!海の上以外のシーカヤックは、陸の上の魚みたいなものだというのは先入観である。スキー道具やらキャンプ道具やらで、本体の重量もあわせて60kg以上あろうかというのに、氷のような堅い雪の上ならそりになるのだ。こうして湖までカヤックを引っ張っていく・・・ 湖にカヤックを浮かべ漕ぎ出す。ちょっと日本離れしているこの景色。雪山をバックにして氷塊が漂い、行ったことも見たこともない北極海のフィヨルドの海はこんな景色じゃないかと、勝手に想像してしまう。時速7kmで快調に湖の最奥部のベースキャンプを目指す。もう探検家気分なのだ。 大小の沢が入り組んだフィヨルドのような地形。地図だけでは、初めての人ならどこか違う入り江に迷い込んでしまうかもしれない。もちろん自分自身は通い慣れたフィールドだから迷うべくもないけど、今までと違うこの白い景色の中で漕いでいると、未知の海を探検しているかのような夢を見たくなる。 2時間ほどでベースキャンプ地に上陸。湖岸はどこも雪原だった。水位が変化しなければ問題ないけれど、雪解けの多い時期なのでちょっと不安になる。増水しても逃げ場がある場所にテントを張る。 残念なことにエアマットを忘れた。落ちている針葉樹の枯れ枝などをマット代わりにしたが、冷気は防ぎようもなくて一晩中寒くて眠れなかった。翌朝、テントにもカヤックにも霜がびっしり付いていた。 5時にウロコ板スキーで歩き出す。平ヶ岳登山ルートの核心部は、取り付きの細尾根である。最初に取り付いた尾根は見事にはずれ、2時間弱のタイムロス。1本沢をはさんだ向かいの尾根をルートにとる。こちらが狙いのルートだった。 細い尾根をウロコ板やツボでグングン高度を上げる。やがてまわりを一望できるようなってくると、デブリやクラックがいたるところにある右の沢が、帰りの下山ルートとして使えそうなことがわかり一安心。かなりの時間短縮ができる。 なんとか稜線に辿りつくことができ一安心だ。稜線に上がると、そこからは上り下りの緩やかな尾根歩き。クロカンテレマークのスキーヤーにとって、もっとも得意とするところだ。 登っては滑りを繰り返し、いくつもの小ピークを越えていく。歩きなら、とても日帰り登山は無理だろう。目指す平ヶ岳は遙か彼方だ。静かな黒木の森の中を軽快に飛ばしながら、清々しい春風を感じる。 右に左にと遙か彼方に見覚えのある白い山々が眺められる。休憩など朝の5時からほとんど無しで、歩きっぱなしである。しかし、いくらでも歩ける気分だ。目指す平ヶ岳も、やがて眼前に大きく横たわるかのように現れた。 ようやく平ヶ岳が近くに感じられる距離となってきた。ほとんど樹木のない真っ白い大斜面に取り付いて、ウロコをきかせてひたすら登っていく。 平ヶ岳の前衛峰である池ノ岳(2090m)に立ったとき、平ヶ岳の山の大きさに圧倒される。山頂を踏まなくても、この景色を眺めるだけで十分だと思う。 でも、まだ正午まで小一時間あるので、行ってみることにした。 ベースキャンプから6時間45分。登山ルートの取り付き地点から3時間45分、ついに平ヶ岳山頂に立つ。不安と苦闘から解放されて至福のひとときだ。 だだっ広い山頂を歩き回る。カヤックで渡った銀山湖も眺められた。 続く

登山道が廃道だった頃の大高山の話

1992年2月 2000m前後の上信越国境の山々が野反湖を中心として東は三国峠、西は志賀高原へと連なっている。大高山は、野反湖から西へ志賀高原の赤石山へと続く国境稜線上の中間あたりに、2079mの高さで聳えている。草津温泉から眺められる大高山には、いかにもスキーに適した広いなだらかな尾根を見つけることができる。マイナーな山域であり、ここを誰かが滑ったという記録は知らない。かつて整備されたことがあるという国境稜線の登山道は、大きな台風で荒廃したまま藪の中に埋もれてしまっているようだ。地形図にある点線の登山道を頼りに、昨年の夏と秋に一度ずつ大高山への偵察を試みたが、まだ湯気が出ていそうな熊の大きな糞に驚かされたり身動きが取れなくなるほどの藪に阻まれるばかりで、大した収穫は無かった。それでも大高山直下には五三郎小屋という立派な避難小屋があるはずなので、かつては整備された登山道がしっかりあったようだ。現在その小屋がどういう状況なのか、わたしの周りでは知っている人もいなくて、どうやら地元でも最近は登った人がいないようだ。 今回は、鬱陶しい藪を雪が隠してくれる厳冬期に、スキーを活用して大高山に登頂し、まだ誰にも滑られたことが無いであろう尾根のスキー滑降を試みるべく、1泊2日の予定で林道入り口から出発した。 土曜日の午後1時半過ぎ、ここから続く林道の終点でテントを設営することにする。天気は、雪がちらつき寒い。強い冬型である。視界もあまり利かず、明日の行動が不安であるが、天気予報によれば少しずつよくなるというので決行する。同行の仲間はクロスカントリースキーだ。テレマークスキーよりもさらに軽快そうに先を歩く。ガラン沢が左に険しく切れ落ちている林道を1時間半歩き、今日のテン場についた。テントを設営した後、明日のルートを少しでも確認しておくため、偵察に出かける。ここからは地図にも出ている古い登山道を辿りたいのだが、いかんせん藪が相当ひどいようで1メートルあまりの積雪でも埋まり切っていない。甘い考えだった。すぐにひどい藪に進退窮まって仕方なく深く切れ込んでいるミドノ沢へ降りることにした。沢の渡渉は問題無く、飛び石伝いに渡って対岸の雪壁を攀じ登る。面倒くさいルートになったが、沢を渡ってしまえばこの先は単調な尾根歩きなので、今日はここまでとする。 翌朝8時過ぎに出発。国境稜線の山々はガスっているけど、南の空は雲もなくよく晴れている。目指す大高山は望めないがそのうちそのどっしりとした姿を現してくれるだろう。すんなりミドノ沢をまたいで、今は手入れもされず忘れ去られてしまったようなカラマツの植林地のなだらかな尾根に立つ。ここからはとにかく忠実に尾根筋を登るのだ。1500m付近よりカラマツの植林地からブナやナラの原生林に変わる。何百年という樹齢のブナやミズナラの大木は、身震いするほどに美しいと思う。登るにしたがい展望がどんどん開け、植生がダケカンバの疎林などに変わる。右に八間山が全貌を現し始め、後ろには浅間山が雄大な姿を誇示する。そして左には一ツ石と呼ばれる1825mの小ピークと2039mのダン沢の頭が間近に迫ってくる。いつの間にかガスが晴れ、真っ青な空が眩しくなってきた。私たちの突然の侵入に驚いたのであろう、つい今しがた駆け上がっていったウサギの足跡が新雪に生々しく刻まれていた。 ミドノ平の手前の1810mの小ピークを越えるとアオモリトドマツの林に変わる。風が強く吹くようになる。天狗平で昼食をとり、12時半頃出発。大高山への最後の登りだ。ミドノ平のちょっとした雪原を横切り、稜線に取り付く。稜線に立つと、魚野川に荒々しく切れ落ちている岩菅山の白い山肌が望まれ、このあたりの自然の厳しさを物語っているように感じた。あと標高差は300m弱。重い湿雪のラッセルに悩まされながら、1時40分登頂した。 私にとっては、初めてのピーク。パノラマを堪能した。さて待望のスキー滑降だったが、気温が上昇してのりのようにベトつく悪雪となってしまい、ほとんど直滑降となってしまった。しかし西向きの斜面でかろうじてサラサラの粉雪が残っていて、きれいなテレマークターンが決まった。仲間はクロスカントリースキーなので、滑降では苦労しているようだが、それでも器用に下りてくるもんだ。

利尻山スキー1周時計回り2011春

2011年4月6日  ポン山のポンというアイヌ語の意味は小さい。利尻島は大きな利尻山そのものだが、2万5千の地形図を眺めると、広大な利尻山の裾野にポン山がなんと7つある。鴛泊にあるポン山(444m)、その隣の小ポン山(413m)、鬼脇ポン山(410m)、オタドマリポン山(164m)、メヌウショロポン山(155m)、仙法志ポン山(320m)、そして沓形にある神居ポン山(140m)だ。ポン山という名前でない針伏山(302m)も含めれば8つだ。  鴛泊を朝スタートして、このポン山をすべてつなぎ、1日で利尻山を1周して戻って来れないだろうか。これが当初の計画だった。純白の利尻の写真を眺めていると、ちょうど森林限界あたりをルートにとれば距離的に短くなるので、シールを貼ったり剥がしたりする手間のないウロコスキーならば出来そうである。しかしながら今回、それは果たせなかった。鬼脇側の標高の低いポン山では、この時期すでに雪が少なすぎた。また、すべてのポン山を回ると、陽のある時間帯での行程には距離が長すぎた。今回はポン山にこだわらず、森林限界付近を効率的にルートどりして1周してみることにした。  利尻富士温泉の駐車場を6時半頃スタート。昨夜の冷え込みで雪面が凍っていてウロコスキーでは歩きにくい。さて時計回りがいいか、反時計回りがいいか?ルートを詳細に検討したわけでなく、地図を眺めていて直感的に時計回りで行こうと決めていた。ポン山の麓に湧く甘露泉あたりからいよいよ1周ルートに舵を切り替える。標高300m前後にGPSと地図を頼りに進む。  1周ルートの困難さは、途中いくつもある小さな尾根や沢を越えなければならないこと。なるべく容易な場所を考えながら進むのだが、地図と実際は違っていたりもする。また、1周だから曲線的なルート取りというのも意外と難しい。常に時計回りを意識して右に右にと進まないと、距離が自然と長くなってしまうのである。実はこの2つのルートファイン的解決が1周ツーリングの醍醐味ともいえる。さてどんな素晴らしい景色が待ちうけているだろうか、北稜下部の樹林帯を進みながらワクワクしてくる。  小ポン山を越えるあたりにいくつも深い沢が待ち受けていた。この頃には雪も腐り始め、沢床からの登りもウロコスキーで快調にこなせる。ただ展望がなく深い森の中をひたすら進むという感じである。利尻に熊がいなくて良かった。熊の化石は発掘されているそうだが、いつの時代か絶滅してしまった。またキタキツネもいない。これはエキノコックスという風土病の原因になるが、いざとなれば利尻では生水が安心して飲める。砂防堰堤が目印になって、オチウシナイ川を確認する。時刻は午前9時56分。ということはいつの間にか豊漁沢川は過ぎていたようだ。しかしこのペースはちょっと遅いのではないか。休憩もそこそこに進み、アウトロマナイ川(午前11時8分)を快調に過ぎる。時々眼下の彼方に青い海が見える。  今頃の季節の利尻では、風が1日中穏やかな日というのは珍しい。たとえ今風がなくても、午後から急に風が吹き出したりするのは当たり前のようである。しかしながら今進んでいる樹林帯は、風の影になっているようで平和である。宝仙沢川を12時33分通過。宝仙沢川の上流が万年雪のヤムナイ沢である。宝仙沢川を過ぎ、深い滝ノ沢を越えて、南陵の裾野に広がる雪の大地に立ったあたりから、向かい風が強くなってきた。これはいよいよ風との戦いである。穏やかであれば景色を思い切り楽しめるはずだけど、まっすぐ立っていることも出来ないくらいの強い風では前に進むことしか考えられない。少しでも風のよけられるところで地図を広げてルートを確認する。ここから進路を90度右に舵を切る。円周を小さくして距離を短くする作戦だ。  南陵や仙法志稜の裾野に広がる利尻南面台地は、利尻スキー1周のハイライトだ。この辺りだけで遊ぶという手もある。ヤムナイ沢源頭の荒々しい景色を様々な角度から楽しみながら、自由にウロコスキーでルートをとって歩いたり滑ったりが楽しい。しかし今日は強風と時間との戦いである。  遅れる家内を励ましながらひたすら前を進む。そろそろ進退を決めなければならないだろう。なんとか日没までにゴールできそうだと思ったが、残念ながらGPSの電池が切れかかっていて、予備の電池も持っていなかったのが迂闊だった。 大空沢の先のシサントマリ字界沢を過ぎた辺りで残念ながら沓形へ下山することにした。しかし結果的には、下山ルートをとるにしても標高0mの沓形まで距離は長く、GPSの電池の予備があれば1日で1周は十分可能だったと思う。腐れ雪が日が暮れるとともに気温が下がって固くなるおかげで、進むにしたがいスキーが滑るようになり楽になった。  神居ポン山の近くまで来ると、スキーやワカンの跡が残っていて、これをたどると沓形の町の外れに難なく出ることが出来た。 急いでバスターミナルに駆けつけてみたが、鴛泊行きの最終バスは16時45分に出てしまっていた。Kさんの御親切に甘えて車で迎えに来てもらうこととなってしまった。バスターミナルの前の海はチョッと荒れていた。 2011年4月7日  今日もまたKさんに昨日のゴール地点まで車で送って頂いてしまった。おかげ様で楽に昨日の続きを再開することが出来た。今日は、昨日よりもさらに天候が悪化し、標高800m付近より上はガスで利尻山が見えない。曇り空で相変わらず風も強そうで、肌寒い感じがする。雪が凍っていてウロコスキーでは大変そうなので、シールを装着した。 午前8時30分、Kさんに見送られスタート。家内が元気に先を歩いていく。神居ポン山付近から昨日のシュプールを外れ、沓形稜の避難小屋を目指していく。途中藪っぽいところもあったが、標高が高くなるにつれて樹間も広くなり歩きやすくなった。森林限界を抜け出て沓形稜の避難小屋を目指す。森林限界を抜け出ると、眼下に沓形の町並みと海の景色が広がった。 今日は、避難小屋の先にある906mの小ピークあたりまで登り上げ、そこから滑降も楽しみながらゴールを目指そうと考えていた。しかし昨日よりもさらに強い風が森林限界より上では吹いていた。上部はガスで、まっすぐ立っていられないほどの強風が吹き荒れる。標高630m付近でシールを剥がして滑降することにする。広い尾根を水平に移動するとき、ストックで漕がなくても風でグングン進んでいくのには驚いた。風向きが逆でなくて良かった! いくつもの尾根と谷を越えていくと、やがて見覚えのある消えかかったシュプールに出逢った。  一昨日の長官山からの私達のものだ。あとはこれに沿ってのんびり行けばゴールである。風のよけられるところで昼飯にした。そして、午後1時半スタート地点の利尻富士温泉駐車場にゴールした。 今回の利尻スキー1周、会長さんやHさん、Kさんなど利尻の人は、今まで聞いたことないから初めてではないかと言われたが、実はそうではない。富山の岳人、佐伯邦夫氏が著作「スキーツーリングに乾杯!」で発表している。1周したのは1981年3月下旬だから、30年も前の記録である。

12月の姥ヶ岳BC

前日からの悪天候で新雪が50センチ以上は積もったようです。先行者がラッセルした深いトレースがしっかりと残されていました。そして2年ぶりに訪れたブナの森は私たちを優しく迎えてくれているようでした。 歩きだしたのがもう10時を回っていたので、途中で二人の先行者がスキーで降りてくるのとすれ違いました。やはり上部はガスで視界不良だったようです。でもフカフカのパウダースノーは楽しんできたようで二人とも笑顔でした。私たちもリフト下の一本だけ楽しんで下山しました。 ところで遅まきながら今シーズンからテックビンディングのテレマークスキーデビューなんです。今日めでたく初歩き&初滑りでした。まだなんとなく違和感のあるテレマークターンでしたが、これで滑るうらやまパウダーへの期待感がかなり高まりました。 2日目も悪天候だったので、プレオープンした近くのスキー場で新しいスキーを履いてコソ錬。昼前から雨が降り出して早上がり。でもおかげで新しいスキーが体の一部になってきている感じがしました。 そして3日目。さすがに標高の高いところは雪だったようです。でもどこでもフカフカのパウダーというわけでもなくてちょっと期待外れでした。 リフト下をシール登行する途中で突然ガスが切れて視界が広がりました。バックカントリーツアーとして最高の展開です。 姥ヶ岳山頂からボトムまで、贅沢なんか言ってられずにプチパウダーの感触を存分に味わいながら楽しく滑り下りました。 そして4日目。雪質は毎日目まぐるしく変化していくことを実感しました。朝から天気のいい今日の雪は、もうクラストがどんどん進んでいました。 シーズン最初のバックカントリーで毎日これだけ違う雪質の変化を実感することができて成果のある遠征でした。 昨日落とせなかった四ッ谷川源頭斜面を軽く一本。姥ヶ岳山頂に登り返して下山しました。 姥ヶ岳山頂からは、昨日見えなかった鳥海山を眺めることができました。 4日目の雪もシーズン初めですから決して悪くはなかったです・・・

1997年2月の芳ヶ平

 志賀草津道路は11月の中旬から4月の下旬まで冬季閉鎖になる。厳冬期、2000メートルの高所を通る区間は、相当厳しい気象である。弱い冬型の気圧配置の日でも、二月初旬の山田峠は、体重75キロの体が簡単によろけてしまうくらいの風が吹く。吹き溜まりはかなりの積雪になり、過去に雪崩の記録もある。その上ガスも発生しやすいので、車で通り過ぎる人から見れば大した事のない峠なのであるが、冬は昔から遭難が多いのだ。志賀草津周辺のスキーツアー解禁が3月1日と決められているのは、このような事情があるからなのだろうか。   志賀方面へツアーするときは、私はいつも六合村から入山する。鋼管休暇村の長い林道を歩き、関東ふれあいの道というハイキング道沿いに芳ヶ平を目指す。一度ウサギを追う猟師たちと出会った事があるくらいで、雪のある時期はまず人に会うこともない樹林の中の静かなコースである。リフトやゴンドラを利用していっきに高度を稼げば楽だが、のんびり歩いて登るのもいいものだ。でも今回は、某スキー場の最終リフト降り場から歩き始めるという楽な手段をとってしまった。 今冬は少雪の年のようだ。まだ2月初旬だが、あまりにも少なすぎる。去年の半分の積雪だ。芳ヶ平から先の雪の状態が心配だった。約1時間、志賀草津道路を歩いていつもの芳ヶ平へ滑降する尾根の突端にあたる地点についた。志賀草津道路の最高地点からの急斜面も良いが、この時期はやはり雪崩が怖い。尾根コースならば安心だ。このコースは、心地よい斜度が一定に続くなかなか魅力的なコースである。今まで何回も滑っているが、雪質も良い。 ところが今回はそうではなかった。やはり少雪が原因か。日当たりが良く風の影響も受けやすい斜面は、かなり手ごわいモナカ雪で、幾度か転倒した。しかし今シーズンはまだ誰にもシュプールを刻まれてはいないであろうこの処女雪の斜面に自分一人のシュプールを刻むのは、いくら転倒しようとも爽快な気分が残った。 芳ヶ平に降り立つとガスも晴れて、無人の雪原を小屋に向かって進んだ。小屋は夏季も管理人が入らなくなったようで、なんとなく寂れた雰囲気が漂っていた。渋峠から草津へ抜けるコースには、一本のシュプールが残されていた。ここからはやっとこさ滑れるくらいの雪しかなく、六合村へ降りるのをやめて、草津へ降りることにした。