カヤック

3.11震災の記憶 2011 バイク&カヤック 三陸

10月6日 曇り沼田R120~日光R121~会津若松~米沢R13~山形~天童~尾花沢道の駅尾花沢で車中泊。温泉は尾花沢市内の徳良湖温泉花笠の湯。 10月7日 曇り尾花沢R13~新庄~雄勝~湯沢~横手R107~北上R28~花巻R283~遠野 花巻では宮沢賢治記念館を見学する。宮沢賢治が明治29年の明治三陸大津波の年に生まれ、昭和8年の昭和三陸大津波の年に亡くなったことの奇遇、生前評価されなかった宮沢賢治だけど、外国からの評価はかなり早い時期からあったこと、辻まことの父親辻潤が宮沢賢治の詩を絶賛した文献が見られたこと・・・などなど、様々な発見がありかなり楽しめた。ただ以前読んで面白かった奥成達著「宮沢賢治、ジャズに出会う」に関連する文献に出会えなかったのが残念。それから遠野は、高校生の頃、みちのく一人旅で訪れたことがあったけど、その時の印象とはだいぶんかけ離れた地方都市の賑やかさにびっくりした。温泉は、踊鹿温泉、名前がなんか遠野らしくていい。車中泊は道の駅遠野。 10月8日 晴れ遠野R283~釜石R45~宮古市 直接宮古市に行くのではなく、釜石から海岸沿いの国道45号線を北上して宮古市の会場であるリアスハーバー宮古へ。釜石からここまで沿岸部の津波の被害の大きさを目の当たりにする。そして会場であるヨットハーバーもまだまだ津波の傷跡だらけである。港には沈んでいるヨットもあるし、建物はすべて壁も屋根もズタズタに壊れたまま。開会式は12時半からなので、自転車で宮古市内をチョッと散歩。魚菜市場を覗く。おいしそうなお魚が安い!今日の夕食が楽しみである。参加者のなかには浄土ヶ浜までカヤックでツーリングしている人もいたが、いちおう明日イベントで被災箇所を中心とした湾内ツーリングがあるので、海に浮かぶ楽しみはとっておく。 ところで、リアスハーバー宮古は、市内の2つの高校のヨット部の本拠地である。彼らの艇庫があり、その練習場所でもある。この日も天気に恵まれたので白い大きな帆が湾内を走り回っていた。震災の日も高校生達は練習していたらしいが、避難して全員無事だったそうである。しかしながら、立派な艇庫だったらしき建物は無惨な姿のまま。今だに更衣室もトイレも使えない環境のなかでがんばっているようだ。今回のイベントでもトイレはもちろん仮設トイレだった。開会式後、軍手とゴミ袋をもらい、清掃活動。150人以上も仕事をすると、さすがにあっという間にゴミの山が出来てしまう。優に10メートル以上はある木の枝に引っ掛かったゴミも回収していた。ここでの清掃活動はすでにもうほとんど片付けられたあとのゴミ拾いだから簡単だったけど、この後三陸各地を自転車で見て回って、津波直後の瓦礫の山など想像を絶する有様だったと思う。 清掃活動の後、会場を車で30分ほど離れたキャンプ場と温泉施設のある湯ったり館に移して津波の勉強会。途中魚菜市場で夕食の買い出しをしていく。勉強会では、モンベルの辰野勇氏、日本野鳥の会宮古支部長の佐々木宏氏、東大名誉教授の月尾嘉男氏のお三方の講演。辰野氏は、企業としての震災復興への関わり方についての話とさすがちゃっかりと浮くっしょんという新開発商品のPR。佐々木氏は、震災後すぐに三陸被害をくまなく自分の足で見て回り5月には「東日本大震災」を自費出版したそうで、地元の方だから語れる生々しい津波被害の実態の話。月尾氏は、東大名誉教授らしくとても学問的。今回の被害の実態から震災復興に向けてあらゆる角度から提言。神社やお寺が高台に立てられていて今回の津波でもほとんど被害を受けていないのは、昔からこの三陸の津波の恐ろしさは何度も繰り返されているからだというお話や、また人間が築いたどんなに堅牢な建造物も、津波には簡単に破壊されてしまうけれども、何万年も前からあるだろう自然の姿は津波をかぶってもびくともしないというお話など。いろいろ考えさせられました。 温泉は湯ったり館。車中泊はチョッと離れた道の駅やまびこ館。 10月9日 晴れ 午前 宮古湾内ツーリング 午後 浄土ヶ浜往復 漕行距離 20.2km 今日も朝から大快晴、海は凪。いよいよである。午前9時、開会式後、三陸の海にとうとうカヤックで漕ぎ出した。先導するモーターボートに138艇のカヤックが後を追う。まずは震災で犠牲になられた方々に、宮古港の前に全員が集まって黙祷。そのあと宮古湾を時計回りでのんびり漕ぐ。 海上自衛隊の巡視船が私達のために歓迎放水を見せてくれる。 カヤックを漕ぎながら、海に向かって逆三角形に大きく広がっていく奥深い湾であるリアス海岸独特の地形を実感する。天然の良港として栄えるのはまったく理にかなっているが、津波が押し寄せた時はそれがまったく裏目に出てしまう。昨夜の津波の勉強会でも考えさせられたけれど、これからはもっともっと自然と上手に共生していく方法を考えて、またいつやって来るかわからない大津波に備えられる復興を実現して欲しいなと思う。シーカヤッカーも、今まであまり津波のことは現実の問題として意識せず海を漕いだり、海岸近くでキャンプをしたりしていたかもしれない。しかしこれからは、津波に対する危機管理を当然意識せずにはいられなくなったと思う。 ツーリング終了後、配られた復興弁当と秋刀魚のすり身がたっぷり入ったサンマ汁のお昼を食べて閉会式、解散。私達はこの際せっかくだから午後もカヤックツーリングにでることに。お昼になって風が強く吹き始め、海上には白波が立ち始めてたけれど、たぶん夕方にはまた凪の海になるだろうと予想して浄土ヶ浜へ向かう。 閑散とした浄土ヶ浜には一人のダイバーの方がいて、浄土ヶ浜の海底に沈んでいる瓦礫の清掃活動をされていた。地元の方で、一見美しい景色だけれど、海底にはまだまだたくさんの瓦礫が沈んでいるんですと話していた。たくさんの大きな重機やダンプで瓦礫処理をしている光景とはまったく対称的に、たった一人でひっそりと肌寒い海に潜っている姿にちょっと胸が熱くなった。 温泉は、岩泉のホテル龍仙洞愛山。車中泊は道の駅いわいずみ。明日からは自転車で三陸海岸を走って、復興している三陸の姿をこの目で見たい。 10月9日 晴れJR八戸駅R45~JR種市駅~岩手県道の駅久慈 走行距離66km 道の駅いわいずみから北山崎に寄り道して青森県洋野町のJR種市駅へ車移動。自転車初日は、JR種市駅からJR八戸駅まで輪行移動して、いよいよ八戸から三陸海岸を石巻まで自転車旅。八戸から種市までは家内も自転車を漕ぐ。種市からは家内に車でサポートしてもらって本日久慈まで。 北山崎は閑散とした雰囲気。津波の被害はまったく受けていなくても、三陸に観光客が激減したのでそのあおりを受けてしまっているのだ。今、三陸の観光産業は、以前の元通りの姿に復興する時をじっと耐え忍んでいるのだ。 家内も自転車にたまには乗りたいだろうから、JR種市駅に車をデポして、自転車を輪行にしてJR八戸線で八戸へ。ほんとうは久慈から輪行したかったけど、震災により種市~久慈間は不通のままだから仕方ない。JR八戸駅には、駅構内に図書館があるのがいい。震災関係の本を見たりした後、自転車で走り始めたら家内のMTBにアクシデント。自転車の組み立てでうっかりチョッとした間違いがあったようで、無理にペダルを漕いだためチェーンがねじれて壊れてしまった。駅近くの自転車屋を探して修理してもらうのに時間をロスしてしまった。そのため楽しみにしていた八食センターでのお昼も遅くなって午後2時半過ぎになってしまった。忙しくお昼を済ませて八戸の市街地を国道45号線で種市へ。沿岸部を走る県道1号線でウミネコ繁殖地で有名な蕪島や種差海岸を見たかったので、今回は残念。 ひたすら45号線を種市目指して漕ぐ。八戸市は内陸部なので津波被害の様子はわからなかったが、列車の車窓から見た住宅地の様子では、一般家庭の家の庭に仮設トイレが置いてあるのが目立ったのは、電気、ガス、上下水道などライフラインに大きな影響があったのかもしれない。道の駅はしかみを過ぎると、岩手県洋野町に突入。そして洋野町にあるJR種市駅で、家内は車のサポートにまわる。今度は独りで国道45号線を飛ばしてさらに南下。途中小さな川を通り過ぎるたびに橋の上から川を覗くと、サケの遡上する姿が見られた。もちろんほとんどの橋は津波にやられて補修中である。久慈の市街地に入る手前で完全に日没。夜道を走って道の駅久慈で本日Finish。温泉は山根温泉ぺっぴんの湯、車中泊は道の駅久慈。 東日本大震災市町村別被害状況 (社会データ図録東日本大震災被害状況資料より引用)青森県八戸市 死亡者1人 行方不明者1人    津波で広範囲で浸水、住宅約650棟が全半壊岩手県洋野町 死亡者0人 行方不明者0人   住宅20棟や多数の漁船、JR八戸線鉄橋が流失岩手県久慈市 死亡者2人 行方不明者2人 石油備蓄基地で屋外タンク4基破損、大規模火災も 10月10日 晴れ岩手県道の駅久慈r268~小袖~道の駅のだR45~普代r44~黒崎~平井賀~道の駅たのはたR45~小本~田老~宮古市リアスハーバー宮古走行距離126km 早朝道の駅久慈をスタート。さすがに朝晩は冷え込む時期なので、何を来て走るか悩む。だんだん日が昇って温かくなることを期待して、ちょっと風の冷たさを感じながら夜明けの小袖海岸を走る。道路のいたるところに津波の傷跡が残っていたり、道はほとんど補修中といったところ。今回はいつものロードバイクではなくて、34年前のブリジストンユーラシア。ツーリング用のタイヤなのでスピードは出ないけれど、悪路でも安心して走ることができるのがいい。小袖の集落で道を間違えて漁港の中に迷い込んでしまった。海から帰ってきた漁船が朝の水揚げをして活気が感じられた。来夏はきっと海女漁も元の通り復興して欲しいと願う。小袖からは山道の急な登りをひたすら漕いで国道45号線の道の駅のだを目指す。登校途中の小学生が元気に挨拶してくれる。 海岸部に出ると野田村に入る。津波で小石のように流されてあちこち砂に埋もれたテトラを、砂浜に大きな重機が入って掘り起こし回収していた。とても人間には出来ない作業である。この後いたるところでダンプやユンボなどの大型工事車両が瓦礫処理をしていたが、物資を運ぶトラックとともに大型車両は大変な活躍である。そんな大型車両が行き来する復旧して間もない道を、復興の邪魔にならないよう自転車で走らせてもらう。国道45号線に合流して少し久慈方面に戻って道の駅のだで朝食休憩。道の駅のだは、三陸鉄道北リアス線陸中野田駅の駅前にある。私が到着するさっきまで、駅には通学の高校生でごった返していたらしい。震災以前はこれほどの混雑ではなかっただろう。なぜなら震災によって陸中野田駅は、中間駅から始発駅になってしまったから、きっと広く周辺から久慈の高校へ通学するために集まってくるにちがいない。 野田から45号線を海岸沿いに走って普代村に入る。45号線はここから海岸段丘の内陸部になるので、沿岸部を走る県道44号線を走る。しかしすぐに通行止め。仕方なくとんでもなく急な登り坂の迂回路に回って黒崎で県道に戻って黒崎灯台へ。国民宿舎は営業しているようだけど、なんとも閑散とした雰囲気。昨日の北山崎もそうだったけど、観光客が激減して活気がないように感じられた。…

小笠原シーカヤック・母島一周1998

12月29日 東京・竹芝桟橋を午前10時30分に出航した小笠原丸は、一路父島へ向けて南下した。今回の旅の道づれには新たな仲間が加わり、母島一周は三人でやることになった。この新たに加わった仲間は、シーカヤック初心者だけど、二人だった父島一周の時より心強い。しかしどうなることやら。初めての海は、不安がいっぱいだ。 12月30日 午前10時半、予定より1時間早く父島に到着。これで船旅が終わったわけではない。12時30分母島行きの船に乗り換え14時30分にやっとのことで母島に上陸する。昨日午前4時半に自宅を出てから実に34時間もかかったのだ。文句なしに日本一遠い場所である。これだけの長い船旅に耐えられるかどうかが、まずは小笠原を旅するための大前提となる条件なのだ。民宿ママヤにお世話になる。 12月31日 1998年の大晦日、午前八時過ぎに元地の前浜から出航する。前夜のミーティングで、ママヤのご主人折田さんから島の海の様子についていろいろ教えていただいた結果、反時計回りで一周するのが良いということになった。難所は南崎と北端の乾崎だ。どちらも潮流がきつく波も立ちやすいそうだ。折田さんは、宿の若い者を昼頃見張りにやると、親切にも私たちのことを心配して下さり、恐縮する。午後一時までに乾崎をかわすことが出来なければ北港に上陸し、一周は断念するということにした。 父島の時と比べて海は穏やかだった。冬型の気圧配置がこれから強まるという天気予報で、本州の方では西風が強いようだったが、1000キロ離れた母島に影響がでるのは明日以降らしかった。なんと運の良かったことか。さて、昨日まではいくら大きな客船でもただの乗客だったが、今日は違う。大波がくれば木の葉のように翻弄される豆粒のような船といえども、船長なのである。身動きがとれない小さなデッキに縛り付けられるように座っていても、心は大空を飛ぶ鳥のように自由である。快調に南崎へ向かってパドリングする。しかし、南崎は案の定潮の流れが速く、波が立っていた。進行方向と逆に流れていて、なかなか前進できなかった。波も大きく、ただがむしゃらにパドリングした。初心者の乗るベルーガは船足が速く、一番に難所を突破した。続いてK1の私が抜け、最後に父島を一緒に1周した相棒の乗るボイジャー415が私たちに追いついた。三艇がもっと近くにいなければいけないと思うのだが、船体の性能に差がありすぎるので、速い船はついつい先へ行ってしまうのだ。 ところで、父島より母島の方が山が高い。父島最高峰の中央山が標高317メートルなのに対して、母島は乳房山が463メートル、堺ヶ岳が444メートル、石門山が405メートルとである。ところが面白いことに海岸線の景色に父島南海岸のような断崖絶壁の威圧感がない。もちろん南崎をかわすと、東港まで上陸できるところはなく、ずっと断崖が続くのだが、母島という名前通り父島に対して何となく優しいのだ。東崎をかわし、大崩湾にはいると波も穏やかになり、少し休憩する。大崩と呼ばれるだけあり、断崖の一部が崩落し、赤い地肌が剥き出しになっていて大自然の荒々しさを感じる。石門崎をかわし、左奥に東港の防波堤を見て、いよいよ北海岸に回り込む。潮は進行方向に流れていて、快調に進む。波が変なふうに立っているので、私は沖目にかわすが、初心者のベルーガはかまわず最短距離で突っ切っていく。 乾崎に近づくにつれて、うねりが大きくなる。しかしゆったりとしたうねりなので、恐怖感はない。折田さんからは、鬼岩との間を行けとアドバイスされていたので、川の瀬のような大きな返し波が立っていたが、迷わず突っ込むことにした。ここはやはり緊張した。 難所を越えた初心者と私の二人は、のんびり相棒を待った。ここを越えれば母島一周も難所はもうない。相棒の雄姿を記録しようとビデオカメラなど構えていたのだが、その彼を突然大波が襲った。不思議なもんだ。なぜこんな波が突然起こったのかわからない。しかし彼は、沈することもなかった。いつも思うが、ビデオやカメラを向けると、見せ場を作る男である。ここからはパドリングがつらくなる。今までの緊張感から解放されたためか、急に足がつりだした。身動きがほとんどとれない小さなデッキの中では、どうすることも出来ず苦しむしかなかった。足の痛みをだましだまし前進した。そのうち大きな背鰭が三つほど、五,六メートル前の海面からせり出した。驚いた私は思わず「サメだ!」と叫んでしまった。その声にびっくりしたのか背鰭はすぐに消えてしまった。しかし冷静に考えてみるとイルカかもしれない。するとまたもや背鰭が現れた。今度は相棒も確認した。しかしまたすぐに消えた。知床の観光船で一年アルバイトしたことがある相棒はイルカだと断言した。 四本岩には、クジラが現れたという。私たちが越えた直後だったようである。後で知ったことだが、蝙蝠谷展望台から見た者がいた。とすると、私たちのカヤックの下にクジラがいたということか。なんたる大自然の驚異!感動がわき上がってくるではないか。しかしこれは後でわかった話で、この時は、これでクジラでも出たら、最高だよな。」なんて話をしながら退屈を紛らわしていた・・・ 八時間無上陸で念願の一周を達成した。本当はもっとのんびり途中でキャンプなどしながら旅してみたいが、キャンプ禁止のこの小笠原ではかなわない夢である。それでも与えられた条件の中で、私たちは充実したシーカヤッキングを経験した。 1999年  1月1日 最大の目的を果たした私たちは、ふつうの観光客になった。元旦恒例の観光協会主催の行事に参加したり、釣りをしたりしてのんびり過ごした。 1月2日 狭い母島のこと。一周した私たちのことは、一夜にして島中に知れ渡ったようで、このカヌーレースでは優勝候補から「マイジャケのカヌラー」とライバル視されていたそうだ。中央の船だ! 1月3日とうとう母島ともお別れだ。とても素晴らしい旅だった。ママヤの飯はじつにうまかった。島のレモン酒やジャムもおいしかった。そしてママヤでお世話になった折田さんはじめスタッフのお姉さん方、そして同宿した旅行者との語らいが楽しかった。今度こそクジラをカヤックから間近で見てみたい。いつの日か・・・ さよなら。また来るよ。

奄美大島シーカヤッキング2004

今までカヤックでいろんな海を漕いできて、ウミヘビやダツ、でっかいクラゲやサケの死骸、飛び魚などなど、いろいろな生き物に遭遇した。中でもいちばん大きな生き物は、知床のヒグマと小笠原父島のイルカかなあ。父島はクジラで有名なところだから遭遇できるかもと思ったけど、叶わなかった。ところが今回、奄美の海で突然クジラに遭遇してしまった。宿のご主人であるリキさんからは、奄美の海には冬になるとクジラの目撃情報があるということを聞いていた。それを裏付けるかのように、その前日の新聞に徳之島でザトウクジラが目撃されたという記事が一面トップで報じられていた。なんとなく小さな期待感も無くはなかったのだけれど、ほんとうに遭遇するなんてこれっぽっちも思ってはいなかったのだ。奄美ではカケロマ島の徳浜沖が、クジラに出会える有力ポイントらしい。昨年2月、カヤックでカケロマ島一周をした時に徳浜沖を通り過ぎたけど、もちろん会えなかった。 今回の旅の最終日、海はカヤック日和だった。半日しかないけど、奄美本島とカケロマ島に挟まれた大島海峡から太平洋に飛び出してみようと、皆津崎をかわしてホノホシ海岸へ行ってみることにした。大島海峡から外海の太平洋へと漕ぎ出すと、海の色が一気にエメラルドグリーンからディープブルーに変わる。さすがに外海らしく、小さなうねりといえども岩壁にぶつかる波のパワーはすごい。緊張する。皆津崎をかわす前にちょっと上陸休憩した。このほんのわずかなタイミングが、クジラとの出会いを実現させてくれたのだが、誰が想像できただろうか。いよいよ皆津崎をかわす時がきた。その時大きく岬から離れて沖を漕いでいたら、きっと正面からクジラと遭遇していたにちがいない。しかし、私たちは岬に小舟がやっとすり抜けられるほどの小さな水路を見つけた。距離を少しでも短縮するために、この水路を抜けた。ちょうど抜け出るかどうかという時、前席を漕いでいた家内が素っ頓狂な叫び声をあげた。私も反射的に黒い大きな物体を見た。すぐにクジラが頭に浮かんだ。もしクジラだったら、しばらくしたらまた姿を現すかもしれない。緊張しながら前方の海面の様子に集中する。すると突然大きな物体が海面に現れ出た。まさしくクジラだ。背中だろう。すぐに尾ビレが出た。この尾ビレの形、昨日の新聞に出ていた徳之島のザトウクジラと同じだ!おっと、背中から潮を吹く!! クジラまでの距離、4~50mくらいだろうか。前席の家内にビデオで撮影するよう咄嗟に叫ぶが、家内からこれ以上近づかないようにというパニック気味な言葉がすぐにかえってきた。 この時、クジラに近付きたかったが、とうとう近付けなかった。家内が近付かないでと訴えたからではない。距離があっても、クジラの存在感がビンビン伝わってくるのだ。アウトドア雑誌の写真なんかで、カヤックのすぐそばでクジラが海面から飛び出しているようなシーンがあるが、あんなのよほどの勇気がなければできないことだと実感した。何度か私達の前にクジラは姿を現してくれた。しかし、前に進むことができず凍りついた私達の前からは、みるみるクジラは遠ざかって行った。クジラは1頭ではなかった。少なくとも2頭を確認した。太平洋の沖合へ消えていった。

鵜ノ巣断崖~北山崎2024

筑波山から八甲田の酸ヶ湯温泉への移動途中で三陸を寄り道しました。震災後まだ間もない2011年の秋に、宮古で開催された三陸シーカヤックマラソンに参加した忘れられない思い出の地です。 震災前から三陸の海をカヤックで漕ぎたい夢をもっていたのになかなか実現せず、実際に初めて漕いだのが震災直後の三陸シーカヤックマラソンでした。イベントの後、浄土ヶ浜までツーリングしながら、もう一度また漕ぎに来たいと思いました。 再訪は2014年8月に実現しました。鵜ノ巣断崖や北山崎の断崖直下の海を漕ぐことが出来ました。 無数の洞窟をくぐりました。2014年はまだ震災の復興真っ只中で、もちろんそのことはいつも頭に入れて行動する必要がありました。 今回通過するだけでしたが、震災後13年以上の月日の重みを強く感じることが出来ました。一見するとほとんど復興したかのように新しい町並みや道路、漁港、堤防などが目に飛び込んできました。うっかりすると津波の恐怖を忘れてしまいそうになります。でもまだまだ癒やされることのない深い傷痕もあると思いました。 鵜ノ巣断崖の展望台からまたもう一度漕ぎに訪れたいと強く思いました。

11月のレイクカヤック2024

今年は紅葉が遅れているおかげで11月に入ってもまだまだ各地で楽しめています。奥利根湖の見頃は先週だったようで、ブナの葉っぱはほとんど落ちていましたが、ツツジ類やカエデ類の葉っぱは散らずにたくさん残っていました。 10月から出艇時間が午前8時半で、ゲート前にはエンジン付きボートを牽引した車が10台くらい並びました。カヤックは私一人だけだったようで、エンジンボートがすべて出艇した後で最後に一人静かに漕ぎだしました。 釣りのハイシーズンではないので、風のない湖面は静寂です。紅葉が鮮やかな入江を目指して気の向くままにパドリングを楽しみました。 幽ノ沢のバックウオーターに上陸してみました。ほぼ満水なので綺麗な水が流れる沢の中にカヤックを付けることができました。 昔はキャンプなども自由だったので、釣り人や沢登の人などで人気のあった沢ですが、今はヤマハハコのドライフラワーがひっそりと迎えてくれました。 奥利根湖はこれから長い長い冬の季節を迎えることでしょう。来週は高い山が再び雪化粧する天気予報です。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅰ

じりじりと紫外線が肌をこがす。モクモクと積乱雲が大きくなっていく。スコールは、茹だった身体には気持ちいい。突然、彼方の水平線に稲妻がおち、爆音が海面にとどろく。ダツが不意に舟の前方を飛んだりするので、これが運悪く身体に突き刺さったら大変。サメの恐怖も、いつも頭のどこかでちらついている。でも漕ぐごとに変幻自在な珊瑚の海の色彩は、リスクと隣り合わせでもシーカヤッカーを虜にするよ。 1 石垣島から竹富島へ 朝飯前に石垣の港の片隅でカヤックを組み立てていたら雷が鳴り出して、やがてスコールだ。ポツポツきたなと思っていたら、ザーッ、ゴーッと一気にくる。途中でホン投げて一目散にホテルへ逃げ帰る。昨日まではずっと晴天が続いていたらしいが、どうやら突然現れた小笠原諸島近辺の台風7号の影響から、大気が不安定になったらしい。これから旅がはじまるというのに、ついていない。私たちに対して、地元の人は恵みの雨だと喜んでいる。複雑な気分だ。7月下旬のこの時期、南の島では農産物が実りの季節らしい。台風がきて舟や飛行機が動かなくなると大打撃をうけるが、雨は貴重な水資源なのだ。タクシーの運ちゃんが話していた。 ゆっくり朝食を済ましてようやく雨があがった頃、ホテルをチェックアウトしてカヤックの場所に戻る。中学生がウミヘビを捕まえてワーワー騒いでいた。ペットボトルに封じ込めて、水族館状態だ。ウミヘビはハブよりもずっとずっと猛毒をもっていて、咬まれたら大変らしい。さすが南の島の中学生はワイルドだ。ただ安心なのは、おちょぼ口だからなかなか人を咬めないらしい。よかった。ウミヘビは、この後のツーリング中に、相棒が2度も出会った。一緒にならんで漕いでいると、突然ぎゃーっと叫ぶので何だと聞くと、波間に浮かぶウミヘビがいたというのだ。ウミヘビは、さすがに爬虫類で、胚呼吸のために海面に浮いていなくてはならないみたいだ。 出発時刻は11時になってしまった。港を囲む防波堤の向こうすぐに、竹富島が見える。不安定な天気が続くようなので、今日は小浜島まで行こうと、日程について相棒と話し合う。石垣島から西表島までは、日本最大の珊瑚礁が広がる石西礁湖と呼ばれるリーフの中を漕ぐ。昨日飛行機の窓から眺めた時、石垣島から竹富島あたりにはエメラルドグリーンの浅い珊瑚礁の海が光り輝いていた。私にとって未知の海だが、不安はない。それよりも、石垣島から7つの有人島への航路があり、石垣港に絶えず高速船が出入りしているので、それらの邪魔にならないように慎重に港からでなければならない。 港を抜け出ると、八重山の海がパッと広がった。心が軽やかになり、パドリングのリズムも身体から自然に生まれるようだ。今はめったにいないが、昔は竹富島の人が泳いで石垣島に遊びに来ることが良くあったそうだ。潮は石垣から竹富へ流れているのに、強い人がいたものだ。まさしく海人(ウミンチュ)。南の海の日ざしは、半端ではない。長袖シャツと日よけ帽は、強烈な紫外線から身体を守るためになくてはならない。気温32度なのに、長袖なんて暑くて着られるかと考えていたが、実際に海に出てみるとすぐに納得する。 船道を示す標識が島々の間に立っている。なぜなら高速船は、浅すぎるリーフの上を自由自在に航行することはできないからだ。しかし、シーカヤッカーは自由だ。潮がひいて漕げなくなれば、カヤックを曳いて歩けばいいのだ。ただこれから先、どんな大自然の脅威があるかわからない。竹富島には1時間ほどで着いた。少し休憩をして先へ進むことにした。小浜島を目指す。島の北側をかわそうとしたが、リーフの浅瀬に行く手を阻まれる。リーフでは岸から遠ければ深いという常識は通じない。海の真ん中で突然浅瀬が現れる。海の色を読んで、たとえ自由なカヤックといえども、航路を見つけていかなければならない。結局リーフの外に出るために、一度カヤックから降りて曳かなければならなかった。海の色が次々に変化する。陽の光の加減や水深、珊瑚礁や砂、海藻などの海底の地形によって、エメラルドからコバルトまでグリーンやブルーが変幻自在だ。たくさんの魚たちが泳いでいるのも、カヤックからのぞくことができる。突然、彼方の海上に稲妻が落ちる。そして、海面がさざ波立つかと思われるほどの轟音。楽しいパドリングが一転恐怖のパドリングに。私たちは、竹富島と小浜島の中間近くまで来ていた。追い風と追い潮に助けられて、軽やかに進んでいたのだ。しかし、相棒と撤退を決める。反転して、竹富島へ避難だ。今度は向かい風と逆潮に阻まれながら、必死になってパドリングする。スコールがさらに精神的に私達を追いつめる。相棒はあまりの向かい風に、愛用の笠を飛ばされてしまう。やっとのことでコンドイビーチに逃げ込むことができた私たちは、いきなり初日から雷という大自然の脅威に平伏させられることになってしまった。今日は小浜島なんてとんでもない、竹富島に民宿を探してのんびりしようということになった。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅱ

II. 竹富島~小浜島~西表島(大原) コンドイビーチから集落への道ぞいには、真紅のハイビスカスが目を楽しませてくれる。ヤドカリが道路の真ん中を歩いていたが、私たちに驚いて貝殻の中に引っ込む。亜熱帯の道路はのんびりしたものだ。カヤックを浜に残して、とりあえず集落に向かって歩くことにした。今日の宿を見つけなければならない。 ビジターセンターには、サンゴのちょっとした資料館があって、枝サンゴやテーブルサンゴなどのいろいろな標本がある。石西礁湖のことやサンゴの生育について解説していたが、当然標本は、みな白骨化したものばかりだ。サンゴのあの鮮やかな色彩が再現されていなくては、かなり物足りない。とりあえず雷の恐怖から逃れることができ、オリオンビールでおつかれさんをすることにした。 私たちの今夜の宿は、大浜荘だ。集落の中心にあるレンタサイクル屋で自転車を借りて、必要な荷物を取りにコンドイビーチに戻った。ついでに自転車で島のだいたいの道を回って観光する。舗装せず白砂のままの道、サンゴの石垣や赤瓦屋根などとても美しいのだが、徹底した景観保護が行われているらしい。 夕方から心地良い風が吹きだした。民宿の部屋の窓を開けると、冷房がいらないくらい涼しい。ニュースでは、甲府で40.7度、前橋で40,2度の最高気温を記録したなどと騒いでいる。沖縄に来るまでずっと前橋で寝苦しい夜を過ごした相棒は、「ざまあ、みろ。」と喜んでいる。いったい誰にざまあみろなのか。 戸を開け放しているので、蚊が入ってこないように部屋を真っ暗にしてごろんと横になっていた。近所から3線(サンシン)の音が鳴りだした。それに合わせる手拍子、独特の節回しの歌が賑やかにはじまる。地元の人たちの宴会だろうか。笑いや掛け声も聞こえてくる。3線の音が聞こえてきてうっとりとしばし耳を傾ける。竹富島には種子取(たにどる)祭という伝統芸能が守り続けられている。旧暦の9~10月、10日間にわたって「まいた種が土地に根付いて豊かに実りますように。」と神に祈る儀式が行われるそうだ。この祭りで毎日たくさんの歌と踊りが神に捧げられる。島の人口と同じくらいの民謡が伝えられているらしい。その数300余。そんな島だから、夜になるといろいろなところから三線の音に合わせての歌や踊りが聞こえてくるようだ。 翌朝は雨もあがったが、どんよりした空模様でのんびり気分。しかしコンドイビーチに立つと、凪いだリーフの海がシーカヤッカーの心を騒がせ、シャキッとなる。宿の人たちに見送られての出艇。ちょうど満潮の潮どまりの時間帯のようだ。コンドイビーチの景色の中でも、とびきり美しい表情ではないかと思う。南国らしい燦々とした太陽に輝くビーチもいいが、雨上がりの朝のしっとりしたビーチの優しい色彩もなかなかのものだ。今日は小浜島からさらに霞んで見える西表島へ渡りたい。 沖にでるほどに左後方から風を感じる。凪いでいた海も、風の影響からかうねりがではじめ、白波も立つ。私たちは快調に小浜島に向けて進む。時々サーフィンのように波に乗ることができるが、ラダーが宙を切りカヤックが振り回される。空模様からそんなにあわてることもないが、大洋の真ん中で海が突然荒れだしたらと想像すると、気持ちいいものではない。追い風に助けられ一時間半ほどで、小浜島の船崎漁港に到着。 小浜島もやはり集落は島の中央部にあって、漁港には港湾施設とダイビングや観光船の店が二軒あるのみだ。ちょうど昼食時だが、ここには食堂がない。親切なおばさんが食堂まで乗っけてってくれる。小浜島は今売れている四人組のアイドルグループのメンバーの出身地だそうだ。私たちはあまりくわしくないので、その時おばさんの話を聞いてもよくわからなかったが、後で石垣の図書館で彼らの本を探して読むことができた。ダ・パンプのメンバー、シノブだ。シノブの生家は民宿みやらだ。出身の小浜小・中学校は、島の高台にあり海がよく見える。東京から何千キロも離れたのどかな島の音楽好きの少年が、10年後かには有名な芸能人になるなんて誰が予想できたんだろうか。そしてそれにもまして、小浜島はNHKの朝の連続テレビドラマ「ちゅらさん」で日本中の注目の的になっている島だ。帰りはのんびり島の道を歩いて途中からヒッチをしてカヤックのある漁港に戻った。 ボリュームたっぷりのゴーヤーチャンプルー定食を食べて大満足。小浜島を後にする。小浜島と西表島にはヨナラ水道という潮流のきつい川のような海峡が横たわっている。この海峡は別名マンタウエイと呼ばれ、マンタが見れるダイビングスポットとして有名らしい。小浜島の北海岸を西に進み、いよいよヨナラ水道を目前にする。左に「ちゅらさん」に出てくるガジュマルの木が、海の上のシーカヤックからも眺められた。 浅い珊瑚礁のリーフから川のように潮がひいていく。珊瑚礁の海の大自然の現象だ。ヨナラ水道を横断するには、まずリーフの外に出なければならない。とうとうカヤックから降りて、歩いてリーフの外に出る。リーフの外に出ると、大河のようなヨナラ水道があった。ゆっくり左から右に潮が流れていたが、スピードの出るカヤックにとっては問題ではなかった。今までエメラルドグリーンの珊瑚礁の海の色に馴れていたせいか、ディープな黒い海の色が不気味に感じた。西表島側のリーフの海を今度は南進する。もう3時半を回っていたが、目的地の大原漁港まで遠い。潮はどんどんひいて、相当沖を漕いでいても浅い。右手に水牛車で有名な由布島を見て、もう嫌になるほど漕ぎ進んで、とうとう浅すぎてカヤックから降りなければならなくなった。満潮なら簡単に仲間崎をかわして大原漁港へ行けるのに、浅いリーフはずっと沖まで続いていて、何倍もの遠回りをしなければならなかった。相棒も自棄になっていた。これこそ、珊瑚礁の海の落とし穴だ。海の美しさだけに見とれていたら、潮の干満という大自然のエネルギーに飲まれてしまうのだ。おかげで、くるぶしくらいの浅いリーフを、由布島の水牛車のようにえんえん歩いたサ。大原漁港に着いたのは6時半を過ぎていた・・・

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 III

III. 西表島南東部・仲間川 大原港に着いたのは六時半過ぎ。斜路は干潮で使えず、仕方なく港の片隅にカヤックを引き上げる場所を見つけ、最後の力を振り絞って上陸。南の島の日没は遅いのでまだ明るいが、さすがにもう港は閑散としていた。相棒は、歩き疲れ?か元気がない。宿を見つけなければ。こんなに遅い時間では、夕食のサービスなど、とても望めるはずはないだろう。とにかく冷房と冷たいビールがあれば、どんな宿でも良かった。二軒目の民宿南風見荘からいい返事が返ってきた。30分後に港まで迎えに来てもらう。聞けば、近くに九時半までやっているスーパーがありラッキー。とりあえずシャワーを浴びたら人心地ついた。南風見荘は居心地がいいので、二晩お世話になることになった。 西表島は、マラリアに汚染されていたため、なかなか人が住めなかったらしい。人々は、竹富島や小浜島などまわりの島に住みながら、西表島に田畑を開いて農作業のために通ったのだ。開拓のために強制移住させられた人もいたようだ。いや、夢や希望をもって、定住した人もいたかもしれない。大原は、古見や祖納のように古くからの集落のようで、ここは、新城(アラグスク)島や黒島から移住した人が多いと、宿の人が話していた。いずれにしろ、人頭税という重い税金に苦しみ、人々の生活は大変だった。笹森儀助の南島探検には、当時の圧政に苦しむ人たちのことが記されている。明治になって島の西側にたくさんの炭坑が開発されるようになった。強制労働をさせるためにたくさんの人が連れてこられたり、騙されてやって来たりしたそうだ。西表島の炭坑史の本を読むと、あまりにも悲惨な出来事がジャングルに埋没されているということを知った。美しい海に囲まれ、燦々と頭上から太陽が照りつける大自然のこの島から、そんなことは微塵も感じられない。そういえば、釧路川をツーリングしたときも、釧路の開拓の歴史を知り、北の大地ののどかで雄大な風景からは想像などできず、同じような気持ちになったものだ。 島の東側に由布島がある。今では、かなり有名な観光地だ。島は植物園で、西表島から浅いリーフの海を水牛車で往来する。翌日、民宿で車を借りて半日観光したのだが、途中イリオモテヤマネコの保護や研究をしている野生生物保護センターやサキシマスオウの木を見学して、ここまでやって来た。南国情緒あふれた風情に、たくさんの観光客で賑わっていた。本土からのたくさんの若者が、今では島の手伝いをしているらしい。しかしこの島が成功したのはそんなに昔の話ではない。「楽園を作った男・沖縄由布島に生きて」を読むと、入植者たちの大変な苦労の歴史が伝わってくる。昨日はこの由布島を右に見て、必死でカヤックを進めていた。カヤックで島渡りをしている私たちは、順番待ちをしてまで由布島へ渡るのももどかしいので、水牛車に乗る観光客の様子などをしばらく眺めていた。相棒は、島のおばさんから「ここで暮らすのは楽しいよ。いつでもおいで。」なんて誘われていた。島はおおらかで、歴史も人もすべて呑み込むのだ。 午後は、仲間川を遡ってみることにした。今日も雷が遠くで鳴り出しているが、大海原ではないので気にしない。マングローブの生い茂る岸辺に避難すればいい。潮がどんどん引いていく。そんなこと、なんにも考えていなかった。はじめは川の流れだと思っていたのだが、それはどうやら錯覚だったのだ。川の水深が低くなっていくのだから・・・。1キロほど遡ったところで、相棒が帰れなくなるぞなんて言い出した。観光船があれほどけたたましく往来していたのに、そういえば午後になって店じまいをしていた。確かにこの水深ではもうエンジン付きは無理だろう。すぐに我々も引き返すことにした。ひょっとしてカヤックなら大したことなかったかもしれないが、昨日の今日である。もう水牛のようにカヤックを引っぱって歩く苦労は御免だから・・・シーカヤッカーは、潮の満ち引きをいつも頭に入れておかなければならない。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅳ

与那国島舞台の「老人と海」という映画がいい。カジキマグロを獲るために、サバニ(小舟)でひたすら漁に出る頑固なオジイ。オジイに寄り添い、陰でしっかりと不漁のオジイをささえるオバア。リアリスティックなカメラワークが、南海の孤島の大自然と向き合ってたくましく生きる人々の姿を、淡々と重々しく映し出していた。 40キロ沖にある直径9mの気象ブイのまわりには、こんなのがいっぱい泳いでいるんだって! IV.  大原漁港~西表島南岸~パイミ崎~白浜 無人の西表島南海岸を時計回りに進む。 マングローブの種がプカプカ流れてくる仲間川の河口にあるため、泥水で濁っている大原漁港をようやく抜け出て、島を時計回りに進むコースをとる。天気は回復し、南国らしい明るい太陽と青空は、雷の不安を少し和らげてくれる。昨日一日休養をとったので、パドリングは軽い。左に黒島や新城島を眺めながら、順調に進んだ。南風見崎をかわすと波照間島も見えた。新城島や黒島、波照間島へ次回は渡ってみたいなと思う。波照間島は天気が良くなければ無理だろうが、亜熱帯の大海原を漕ぎ進むのはドキドキするにちがいない。豊原という集落が過ぎれば、これから西海岸の船浮というところまで無人の海岸線を漕ぐことになる。30キロ近くあるだろう。とにかく雷が落ちないことを祈るのみだ。途中でキャンプする覚悟はできていたが、できれば白浜までたどり着きたい。南風見田浜の沖合をのんびり漕ぎ進む。カヤックが進むほどに、小さなカヤックのデッキのまわりいっぱいに広がる海の色が、変幻自在に輝く。小さな波頭に光が反射し、ブルーとグリーンがやわらかくて深い色合いと模様を創り出す。底を覗き込むと、様々な形や色の珊瑚とそれに群れる色とりどりの熱帯魚が滑らかに過ぎていく。このような楽しいパドリングがしばらく続いた。南風見田浜はウミガメの産卵地だそうで、その保護のためキャンプ禁止だ。しかし沖合から眺めると数組のテントやタープがあった。西表には、無人の浜に住み着いたりする人間が多くいるらしい。10年も住んで、そこで人知れず亡くなった人とか、本土で半年働いて、半年ここでのんびり生活する人とか、様々のようだ。考えてみれば、水と食料さえあれば暮らせるのだから、何もしたくない人にとってここは楽園である。2時間ほど漕いで、南風見田浜を過ぎたあたりで休憩のため上陸する。リーフの際では大きな波が立っていた。ジャングルが覆い被さるような小さなビーチにカヤックを上げると、すぐに海に飛び込んだ。茹で上がった身体には、たまらなく気持ちいい。そして、ジャングルの木陰に入り体を休める。 ここにもウミガメの産卵の痕跡らしきものが。 まだまだ先は長い。さらに海岸沿いに進み、鹿川湾を横断してパイミ崎をかわすまでは安心できない。リーフの際にできる大きな波をかわして、またパドリングの旅を続ける。はるか後方の大きな雲の塊が気になるなあと思っていたら、鹿川湾の沖を過ぎるあたりで突然のスコール。茹だった身体を冷ましてくれる。気持ちいいが、眼鏡の雨粒が鬱陶しい。地図を見ると、右手の湾の真ん中あたりに岩礁があるらしく、良いダイビングスポットなのかフィッシングスポットなのか、船が浮かんでいる。沖合にも数隻の釣り船が小さく見える。湾の奥深くにビーチが見える。ここは水も流れていて、キャンプするには絶好の場所らしい。通り過ぎてしまうのはちょっと残念な気もしないではない。しかし、後で西表炭坑史などを読むと、多くの脱走労働者がこういったところで亡くなっているらしい。湾を横断しきると、落水崎がある。落水崎は名前そのもので、ジャングルから湧き出てきた水が、崖を滝のように流れ落ちていた。滝に打たれたら、さぞ気持ち良さそう。 スコールを浴びながら・・・ ついにはるか後方で雷が鳴り出した。上空は青空だったが、後ろから雷雲が迫ってきているように感じる。左後方の波照間島の上には、どす黒く雷雲が覆っていた。前方の海面が一瞬光り、稲光だとわかる。三回に一回は大きな雷鳴が恐怖心をあおる。一度だけまわりの海面をさざ波たてるほどの爆音がしたときはびっくりした。いつの間にかパドリングの手に力が入る。ずっと先のウビラ石をかわしても、パイミ崎はさらにまた同じくらいの距離を漕がなければならない。この先はずっと岩礁帯の海岸だ。うねりが大きて、海岸には波が白く砕け散っていて、とてもカヤックを着ける気にはならない。雷から逃れるために上陸できるような場所は、パイミ崎の先のビーチまで行かなくてはならないようだ。相棒は遅れがちだ。紫に近いブルーの妖しい海の色は、不気味にどこまでも続くかのように感じられた。水平線の彼方の積乱雲の真っ直中にカヤックが迷い込んだら、そこは雨風の吹き荒れるホワイトアウトのような世界なんだそうだ。とにかく漕いで漕いで漕いだ。二時間ほどで無事パイミ崎をかわすことができた。 パイミ崎のビーチは今までとは別世界の楽園だった。 相棒は感慨深くパイミ崎を眺めていた。以前反時計回りで西表島の南海岸を回ろうとして、この岬がどうしてもかわせなかったらしい。パイミ崎の向こう側は穏やかなリーフの海が広がり、いつの間にか青空と明るい太陽が戻っていた。西表島は、400m前後の山が大海原に突然聳えているような島だから、いつも山に雲がかかっている。島のこちら側と反対側では、天気もかなり違うようだ。私たちが来た方向のずっと向こうの空にはどす黒い雲があったが、雷の音もまったく聞こえなくなり、もう安全地帯のようだった。明るい南国の太陽の光が、青い海と白い砂に燦々と降り注ぐ。広々としたビーチの背後にはジャングルが鬱蒼としているだけ。誰もいない無人のビーチは、なんと健康的なんだろうか。これぞ南の島のパラダイスかもしれない。カヤックをビーチに着け、さっそく海に潜る。人なつこいクマノミが、今までの苦労を十分に労ってくれた。ここから民宿のある白浜までは、まだまだかなりの距離があった。崎山湾、網取湾の沖を横切り、サバ崎をかわして、内離島と西表島の間を通って白浜の集落が見えるところまで漕ぎ続けたとき、六時半を回っていた。今日もこんなに遅い時間まで漕いでしまった。カヤックから携帯で金城旅館に電話したら、夕食も準備して泊めてくれた。いい一日だった。 外離島に沈む夕日を白浜から眺めるのんびりしたひととき。 この夜の相棒は、なぜかハイな気分のようだった・・・。今回の旅の核心部を、無事通過できた安堵感からかな。

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅴ

V. 西表島・白浜~鳩間島~バラス島~西表島・上原 小笠原の南海上に台風が発生し、どうやら進路をこちらに向けたようだ。カヤックによる島渡りの旅も、今日までかな。粗末な丸太船で、新天地の島を目指した古代の人たちだって、良い日和を待って琉球列島の島から島を渡り歩いた。今度はいつになるかわからないけれど、またいつの日か小さな旅の続きをしようと思う。 翌日は休養日。朝もゆっくりで、外離島を一周して内離島に面したビーチで午後をのんびり過ごす。せっかく南の島に来たんだから、こんな贅沢な日が一日くらいあってもいいだろう。相棒が宿でクーラーボックスと氷を準備してもらい、そこに十分な量のビールを仕入れてきた。太陽が燦々と降り注ぐ美しい無人のビーチで、ゴクゴク缶ビールを飲み干した。そして熱いラーメンと焼きめしを、ズルズルワシワシと食った。その後は、遠浅の海に仰向けで顔だけ出して浸かり、昼寝。相棒の姿が見えないので、どこに行ったのかなと心配していたら、ずっと向こうのなかなかいい木陰で昼寝をしていた。ところで、こんなにも楽園なところだけれど、悲惨な歴史の傷跡がどこに残っているんだろうか。この外離島にはかつて炭坑があった。明治になって、島の西側にたくさんの炭坑が開発されるようになったのだけれど、本土から遠く離れ、マラリアのあるこの地では、そう簡単に労働力を集められなかった。強制労働をさせるためにたくさんの人が連れてこられたり、騙されてやって来たりして、非人間的な扱いをされた。劣悪な労働から逃れるために、多くの脱走が繰り返され、ほとんどが命を失ったそうだ。そうでなくてもマラリアで多くの人が亡くなった。西表島の炭坑史の本を読んで、あまりにも悲惨な出来事が、ジャングルや美しいビーチに埋没されているということを知ったが、こんなにも美しい景色からはとても想像できなかった。 宿にもどって、夕食の準備が出来るまで部屋でウダウダしていたら、女将さんがいいマグロ釣れたから見に来いと呼びに来た。見てびっくり。このマグロは、西表の沖合40キロにある、直径9mの気象観測用の海洋ブイで釣れたんだそうだ。この海洋ブイのまわりには、大型の回遊魚がいっぱい群れているんだそうだ。これを釣った漁師さんは、はじめ擬似餌でやっていたけれどまったくあたりがなく、他の漁船からイカをもらって餌にしたら一発できたらしい。釣り上げるまでに三回休憩を入れたそうだ。豪快な釣りだったんだろうな。 とうぜん夜は、新鮮なお刺身のお裾分けをごちそうになったサ。その夜の天気予報で、どうやら心配していた台風の進路が悪い方になったことを知らせた。旅の理想としては、出発した石垣島へカヤックで戻りたかった。しかし二日後には台風の影響が出始めるらしく、今回のカヤックによる旅は明日で終わらせなければならなくなった。 の朝、宿の前の漁港の斜路から出発の準備をしていたら、地元のカヤックツアーのガイドNさんがやって来た。1泊2日のツアーを計画していたが、台風の接近で日帰りツアーに変更したそうだ。そのツアーを楽しみにしていた小学生の男の子が、ちょっとかわいそうだった。「西表島でシーカヤッキングがこれからも出来るように事故を起こさないでほしい。」とNさんに言われるまでもなく、地元のガイドが予定を変更するのだから私たちも今日で行動を終了するというのは大いに納得した。台風がやってくるなんて気配はまったく感じられない素晴らしい青空の下、鳩間島に向けて出発。1日休養したおかげで、快適なパドリングだ。海峡を横断する前に、無人のビーチで休憩。相棒は鳩真島に1泊したかったらしいが、明後日では船がでなくなる可能性があるのであきらめてもらう。携帯電話で、上原のきよみ荘という宿に予約をいれておいた。いよいよ海峡横断だ。さっき、Nさんから「あそこはサメがよくでるから気をつけろ。カヤックよりもデカイ奴もいるらしいぞ。」と脅かされていた。私たちは臆病者で、ドキドキしながら進むことになった。潮は逆潮だった。思ったより進まなかったが、快調にパドリングを続ける。気がつくと潮に流されて目標地点がいつのまにか大きく右の方に変わっていてびっくり。今までで、一番潮の流れがきついと感じた。ようやく鳩間島に近付いてきたとき、なにやらお祭りの笛や太鼓の音が潮風に乗って聞こえてきた。大きく波立っている港の入り口を突破すると、港のずっと奥の森の中から楽しそうな祭囃子が聞こえてくる。私たちは、なんていい日に鳩間島を訪れたんだろう。豊年祭の真っ最中だった。鳩間島はの印象を一言であらわすとしたら、素朴な島だった。 沖縄そばの屋台もでていて、見学した後腹ごしらえをした。鳩間島の雰囲気は、なかなか。島には宿が3軒あるらしく、台風が来ていなければ泊まりたかった。後ろ髪を引かれながら素朴な島鳩間島に別れを告げ、西表島との間にあるバラス島を目指して出発した。バラス島には30分で着いた。ちょうど観光船が来ていて、私たちの出現にびっくりしていた。相棒がサメのことを観光船の船長に聞いた。「今はイルカがいるから、サメはいないよ。」と言われて、ホッとする。そういえば、なんだか知床岬のヒグマみたいだ。「エゾシカがいるときはヒグマはいねえ。」と漁師に言われたっけ。観光船が去った後、しみじみとした気分になった。いよいよ、最後のパドリングだ。西表島の上原港で、今回のシーカヤッキングの旅は終わった。石垣島を漕ぎだして8日目の朝、石垣島に戻り安宿に滞在して台風の動向に翻弄される。帰りの飛行機が飛ぶかどうかを心配しながら、レンタカーで観光したり図書館や宿で八重山関係の本を濫読。結局台風は、台湾方面へ進路を取り、石垣島には大した被害もなく通り過ぎた。 西表の漁師は、私たちが出航するとき、「水は持ったか。」と聞いた。そして、「水さえたっぷり持ってれば、大丈夫さ。」と言って、笑顔で送り出してくれた。柳田国男によると、さらに漁師は米の籾を布袋に入れて必ず携行する風習があったという。嵐にあって無人島に漂流しても、そこで稲を育てて生き延びるための知恵だったようだ。南の海は、なんだか大らかだ。すべてを呑み込み、受け入れる。北の海とはまったく違う漁師の気質や風習、伝統、知恵があると感じた。