July 24, 2024

亜熱帯の島々の海を、気ままにシーカヤックで旅したお話 Ⅴ

V. 西表島・白浜~鳩間島~バラス島~西表島・上原 小笠原の南海上に台風が発生し、どうやら進路をこちらに向けたようだ。カヤックによる島渡りの旅も、今日までかな。粗末な丸太船で、新天地の島を目指した古代の人たちだって、良い日和を待って琉球列島の島から島を渡り歩いた。今度はいつになるかわからないけれど、またいつの日か小さな旅の続きをしようと思う。 翌日は休養日。朝もゆっくりで、外離島を一周して内離島に面したビーチで午後をのんびり過ごす。せっかく南の島に来たんだから、こんな贅沢な日が一日くらいあってもいいだろう。相棒が宿でクーラーボックスと氷を準備してもらい、そこに十分な量のビールを仕入れてきた。太陽が燦々と降り注ぐ美しい無人のビーチで、ゴクゴク缶ビールを飲み干した。そして熱いラーメンと焼きめしを、ズルズルワシワシと食った。その後は、遠浅の海に仰向けで顔だけ出して浸かり、昼寝。相棒の姿が見えないので、どこに行ったのかなと心配していたら、ずっと向こうのなかなかいい木陰で昼寝をしていた。ところで、こんなにも楽園なところだけれど、悲惨な歴史の傷跡がどこに残っているんだろうか。この外離島にはかつて炭坑があった。明治になって、島の西側にたくさんの炭坑が開発されるようになったのだけれど、本土から遠く離れ、マラリアのあるこの地では、そう簡単に労働力を集められなかった。強制労働をさせるためにたくさんの人が連れてこられたり、騙されてやって来たりして、非人間的な扱いをされた。劣悪な労働から逃れるために、多くの脱走が繰り返され、ほとんどが命を失ったそうだ。そうでなくてもマラリアで多くの人が亡くなった。西表島の炭坑史の本を読んで、あまりにも悲惨な出来事が、ジャングルや美しいビーチに埋没されているということを知ったが、こんなにも美しい景色からはとても想像できなかった。 宿にもどって、夕食の準備が出来るまで部屋でウダウダしていたら、女将さんがいいマグロ釣れたから見に来いと呼びに来た。見てびっくり。このマグロは、西表の沖合40キロにある、直径9mの気象観測用の海洋ブイで釣れたんだそうだ。この海洋ブイのまわりには、大型の回遊魚がいっぱい群れているんだそうだ。これを釣った漁師さんは、はじめ擬似餌でやっていたけれどまったくあたりがなく、他の漁船からイカをもらって餌にしたら一発できたらしい。釣り上げるまでに三回休憩を入れたそうだ。豪快な釣りだったんだろうな。 とうぜん夜は、新鮮なお刺身のお裾分けをごちそうになったサ。その夜の天気予報で、どうやら心配していた台風の進路が悪い方になったことを知らせた。旅の理想としては、出発した石垣島へカヤックで戻りたかった。しかし二日後には台風の影響が出始めるらしく、今回のカヤックによる旅は明日で終わらせなければならなくなった。 の朝、宿の前の漁港の斜路から出発の準備をしていたら、地元のカヤックツアーのガイドNさんがやって来た。1泊2日のツアーを計画していたが、台風の接近で日帰りツアーに変更したそうだ。そのツアーを楽しみにしていた小学生の男の子が、ちょっとかわいそうだった。「西表島でシーカヤッキングがこれからも出来るように事故を起こさないでほしい。」とNさんに言われるまでもなく、地元のガイドが予定を変更するのだから私たちも今日で行動を終了するというのは大いに納得した。台風がやってくるなんて気配はまったく感じられない素晴らしい青空の下、鳩間島に向けて出発。1日休養したおかげで、快適なパドリングだ。海峡を横断する前に、無人のビーチで休憩。相棒は鳩真島に1泊したかったらしいが、明後日では船がでなくなる可能性があるのであきらめてもらう。携帯電話で、上原のきよみ荘という宿に予約をいれておいた。いよいよ海峡横断だ。さっき、Nさんから「あそこはサメがよくでるから気をつけろ。カヤックよりもデカイ奴もいるらしいぞ。」と脅かされていた。私たちは臆病者で、ドキドキしながら進むことになった。潮は逆潮だった。思ったより進まなかったが、快調にパドリングを続ける。気がつくと潮に流されて目標地点がいつのまにか大きく右の方に変わっていてびっくり。今までで、一番潮の流れがきついと感じた。ようやく鳩間島に近付いてきたとき、なにやらお祭りの笛や太鼓の音が潮風に乗って聞こえてきた。大きく波立っている港の入り口を突破すると、港のずっと奥の森の中から楽しそうな祭囃子が聞こえてくる。私たちは、なんていい日に鳩間島を訪れたんだろう。豊年祭の真っ最中だった。鳩間島はの印象を一言であらわすとしたら、素朴な島だった。 沖縄そばの屋台もでていて、見学した後腹ごしらえをした。鳩間島の雰囲気は、なかなか。島には宿が3軒あるらしく、台風が来ていなければ泊まりたかった。後ろ髪を引かれながら素朴な島鳩間島に別れを告げ、西表島との間にあるバラス島を目指して出発した。バラス島には30分で着いた。ちょうど観光船が来ていて、私たちの出現にびっくりしていた。相棒がサメのことを観光船の船長に聞いた。「今はイルカがいるから、サメはいないよ。」と言われて、ホッとする。そういえば、なんだか知床岬のヒグマみたいだ。「エゾシカがいるときはヒグマはいねえ。」と漁師に言われたっけ。観光船が去った後、しみじみとした気分になった。いよいよ、最後のパドリングだ。西表島の上原港で、今回のシーカヤッキングの旅は終わった。石垣島を漕ぎだして8日目の朝、石垣島に戻り安宿に滞在して台風の動向に翻弄される。帰りの飛行機が飛ぶかどうかを心配しながら、レンタカーで観光したり図書館や宿で八重山関係の本を濫読。結局台風は、台湾方面へ進路を取り、石垣島には大した被害もなく通り過ぎた。 西表の漁師は、私たちが出航するとき、「水は持ったか。」と聞いた。そして、「水さえたっぷり持ってれば、大丈夫さ。」と言って、笑顔で送り出してくれた。柳田国男によると、さらに漁師は米の籾を布袋に入れて必ず携行する風習があったという。嵐にあって無人島に漂流しても、そこで稲を育てて生き延びるための知恵だったようだ。南の海は、なんだか大らかだ。すべてを呑み込み、受け入れる。北の海とはまったく違う漁師の気質や風習、伝統、知恵があると感じた。