いよいよ2月終盤になって春の陽気で雪質はパウダースノーとはほど多いクラストに変化していました。雪庇が張り出したブロック雪崩や新雪表層雪崩を恐れていたトラバース区間も心配するほどではなかったです。

むしろ雪が締まってスピーディーに行動することができました。予定より早く4時間かからず大高山山頂にとうちゃこ。ちょっと休憩して裏大高山まで足を延ばすことも出来ました。

天狗平午前10時41分通過。天狗平は別名細野平とか御殿平とか呼ばれていますが、源義仲の落人伝説があります。家臣細野御殿の介が義仲の子を身籠った姫をこんな山奥まで連れ、逃げ延びてしばらくの間隠遁していたというものです。

午前11時14分、天狗平を過ぎて稜線に取りついて標高を上げると、オッタテ峰の向こうに横手山が目に入ってきました。

午前11時39分、大高山山頂直下。巨大な雪庇が崩れて小さい規模ですが全層雪崩の兆候が見られました。

裏大高山には午後12時35分とうちゃこ。苗場山は雲の隠れていましたが、白砂山や岩菅山連峰は眺めることができました。久しぶりに来ることができて大満足です。

大高山午後1時下山開始。パウダーの季節はいったんお休みです。クラストなコンデョションながらも変化に富む斜面の滑降もそれなりに楽しいです。

午後2時40分下山。今日のコースは、山頂を目指す昔からのいわゆる山スキーとかスキーー登山とかいうスタイルの大高山~裏大高山BCでした。

天狗平の伝説 鈴木広義著「ガラン谷史話」より

「水島の戦いで中枢の武将一千二百余を失った義仲の戦色は敗色濃かった。細野庄にあった重時の二子、三友之介、三子源次郎は、戦局に見切りをつけ信州さして落ちのびるのだった。これよりさき、信州へ家人に守られて、細野庄へ帰しておいた娘楓は義仲の側近に仕えていたが、義仲の子を身籠もっていた。義仲の軍が滅亡し、細野三友之介は弟源次郎と一旦は信濃の国小県の細野庄に帰るが、頼朝の義仲残党追討の先鋒が木曽谷に迫るとの声を聞いて一族郎党を連れて、道を下高井郡にとり、志賀の山へたどり山深くあまり人に知られぬ大沼池に着いた。山岳信仰の修験道修行のためかねてから知っていた道であり、その険阻から人の寄りつかぬところで屈強の場所として選んだ道であった。弟源次郎とその妻、三友之助と妻、娘楓、郎党七,八名。大沼池は青く澄んでいた。思えば変転めまぐるしいこの数年間であった。四月も半ばを過ぎていたが、まだ雪が深くこれからの険阻な道を思うと、娘の身を案じて、三友之助の胸は痛むのだった。大沼池でしばらく休養し天候を見定めて赤石山に道をとることにした。いかな頼朝の追討軍もここまでは追撃できないと三友之助には確信があった。別の一隊は、入山に着いているだろうと思われ、こころの中はこれに頼りたい気もあったが、連絡することはまずいことになるかもしれないと思い、誰にも知られぬよう入山の山中に入り込むことを考えていた。
赤石山を通り越すと倒木と倒伏の笹に歩き続けるのは大変である。それに続いて急坂の連続である。雪の道の笹と倒木の苦しみを過ぎると、小高山への登りにかかってくる。小高山を登り下りしてようやく天狗平に着いた。少しも早く住居を作らなければならなかった。三友之助にとって幸運だったことは、ここは水に恵まれていたこと、狩りをするには獣が豊富だったことである。
娘楓は、京の生活になれた美女だった。楓は、天狗平に着いてまもなく義仲の遺児を産み落とした。」

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