September 14, 2025

奄美大島TRIP2001

奄美大島を漕ぐ 2001年12月 奄美大島行きの飛行機には、TVの報道スタッフたちが膨大な放送機材とともに同乗していた。奄美大島沖で海上保安庁の船に追跡され、抵抗したあげく自沈した不審船事件の取材のようだ。奄美大島へのシーカヤック旅は、2ヶ月前から計画していた。数日前に突然この不審船の事件が起こり、少々不安な気持ちで奄美へやって来た。今回の事件で、日本の沿岸海域もかなり物騒であるということが印象付けられた。カヤックで海に出ていて、不審船に襲われることだって起こりうるかもしれない。そう考えれば、不審船が沈没したことは不幸中の幸いと思わなくてはいけない。この事件がなければ、奄美大島近海でまだ不審船が出没していたかもしれないのだから。それにしても、海上保安庁は、無防備なシーカヤッカーにとって心強い味方だ。いやいや、奄美大島までノコノコやってきた私たちのカヤックこそ、不審船に間違えられたらどうしよう。  羽田ではダウンを身にまとっていたが、さすがに奄美大島の気候は温暖で、次々と上着を脱ぎ捨てていく。ホテルの迎えの車の中で、とうとう半袖になった。車窓から緑の景色が流れていく。生気に満ちあふれた草木を眺めるのは数カ月ぶりである。今回は、笠利湾の芦徳というところにあるリゾートホテルをベースにカヤックで奄美大島を旅したい。今朝群馬を旅立つ時、我が家は積雪15cmで一面の銀世界だった。亜熱帯性の気候だとはわかっていても、これだけ気候が違うと変な気分である。奄美の森には紅葉はないらしい。雪も当然滅多に降らないが、降ることもあるというのが反対にびっくりだ。だから一年に一度あるかないかのあられが降ったりすると、授業中だろうが子供たちは狂喜して外に出ていくそうだ。ホテルで2週間前に宅急便で送っておいたカヤックを受け取り、午後はのんびり組み立てた。南の島に日が沈むのは、ゆっくりだ。夕方、奄美の海にちょっと漕ぎ出してみた。少し沖に出ると、海はエメラルドに輝きはじめた。水深が深くなるにつれてエメラルドは濃厚になり、奄美の海の美しさに感動する。そして、ある境からエメラルドは神々しいほどの深いブルーに変わる。大きく開けた湾の入り口に目を凝らすと、水平線が蜃気楼のようにぼやけて見えた。岬には大きな白波が砕け散っているようだった。山の端に日が沈むまで、穏やかな笠利湾を気ままに漂った。 奄美の漁師には、魚介の恵みはニライカナイからの贈り物だという素朴な信仰がある。笠利湾に立神と呼ばれる岩があって、漁に出るときも漁から帰るときも、この岩に手を合わせる。立神様というのは、ニライカナイの神様が村人に迎えられる前に一時休まれる場所だそうだ。奄美大島の地図を眺めると、どこの入江にも外海への出入り口に必ず立神という岩がある。そういえば、海がない群馬には、天狗の休み木というのがある。天狗様を祭る石宮があり、毎年4月17日にお祭りをやる。天狗の休み木は古くて大きな栗の木で、天狗がここを通るときに休む木だといわれている。海も山も、昔の人の信仰心はなんだか似ている。 11月になると奄美クレーターと呼ばれるこの大きな湾奥にシイラの群れが入り込んでくるそうだ。今年は不漁だったらしいが師走のこの時期になって、シイラが釣れだした。漁師のまねをしてカヤックからルアーを引っぱると、大きな手応え。格闘の末、奄美の海の結晶のような美しい魚体が姿を現した。3匹釣り上げた。2匹はニライカナイへお返しして、1匹だけホテルに持ち帰って夕食に出してもらった。板前さんのご厚意で、綺麗にお皿にのせられた刺身は絶品だった。 後日談がある。どこの馬の骨ともわからない島外から来たカヤッカーがシイラを3匹も釣り上げたことが噂となり、数日後獲物を狙う漁船の数が急に増えたとか・・・ 昨夜、強い寒気の南下で九州南部の山にも雪を降らせた。東シナ海側に面している笠利湾も、波風が激しくなりその影響を大きく受けていた。これではカヤックが海に出せない。カヤックを解体してレンタカーに載せ、太平洋側に注ぐ住用川へ行くことにした。不審船の攻撃で被弾した保安官が入院しているらしい名瀬の病院の前を通り、昼前に住用川河口にあるマングローブ館というテーマパークに着いた。ここでは、マングローブの森の生態系についての資料館とリュウキュウアユの保護増殖、そしてカヤックツアーを行っていた。リュウキュウアユのいけすで作業をしていたおじさんに、素朴な質問をぶつけてみた。鮎といえば友釣りである。リュウキュウアユも釣れますかねと聞きたくなるものだ。おじさんは困惑した顔をして、ここでは保護増殖しているものですから釣りをする人はいませんねと答えてくれた。ごもっともである。 亜熱帯の島・奄美には、山にも川にも海にも濃い森がある。森が奄美の自然を守っているのだ。太古から奄美の人たちは、森の自然を崇めてきた。 天候は不順で、時折通り雨がある中でカヤックを組み立てた。マングローブ館の片隅から、いよいよマングローブの生い茂る住用川に漕ぎ出す。一時間後にちょうど満潮になるので、船を出すタイミングとしてはバッチリだ。この夏、西表島でもマングローブの川で漕いだことがあったが、住用川の方が雰囲気がある。小さな水路に入り込んでいくと、突然大きな魚がマングローブの浅瀬を逃げまどう。オレンジ色の実がいくつも岸辺近くに浮かんでいた。何だろうと拾ってみると、おいしそうなタンカンだ。家内が皮をむいてみると、甘くて酸っぱい香りが鮮やかに広がる。口に含んでみると、香り同様うまい。合計三個いただいた。これこそ森に住む山の神の贈り物かもしれない。  冬型の気圧配置が弱まったにも関わらず、今朝も笠利湾にはその余波がまだまだ残っていた。レンタカーで思い切って島の反対側の大島海峡や加計呂麻諸島の海を見に行くことに決めた。島をほぼ縦断する道は、随所にトンネルが掘られ短時間で行けたが、いつか奄美大島を1周することを考えて、東シナ海側の海岸線の道をわざわざ遠回りした。名瀬市街を通り抜けてしばらく行くと、大きな入り江ごとに現れる漁村の風景は、みるみる寂しいものになっていく。しかし、この素朴さがとても魅力的だ。断崖絶壁の荒々しい様は、きっと冬の厳しい波風に削り取られたからだろう。白波が砕け散っているこの海も、夏はいたって穏やかにちがいな ようやく宇検村にはいると、先ほどまでの東シナ海側の外海の荒々しい風景から一転して、湖のようなのどかな焼内湾があった。深いリアス式海岸に沿って道が付けられているため、ほんとうに遠回りの道である。峠道を越えて、ようやく瀬戸内ともいわれる大島海峡の海が見えたときは、あまりの感激に長時間ドライブの疲れが吹き飛んだほどだ。向かい側に浮かぶ加計呂麻島もさらに複雑な形をしていて、大島海峡の海は初めてやってきた私たちには、どこがどうなっているのやら見当もつかない。ただ、さすが内海なので波は穏やかで、カヤックを出すのに何の問題もない。とりあえず右に大島海峡の海を見ながら、古仁屋の町を通り過ぎて太平洋側に突き出た小さな岬にあるホノホシ海岸へ向かった。 7月はじめに、ここ大島海峡ではシーカヤックマラソンという催しがある。シーカヤックで42.195キロをレースするというハードな競技である。ツーリングで42.195キロを進むということは、私たちにとってはまず無い。もし1日で進んだとしたら、きっと次の日は出発できないくらい疲れ果てていることだろう。でも、キャンプ道具も積まない軽い船で、1年に1度とにかく力の限り思い切り漕いでみるのも、おもしろいことかもしれない。また全国から来たシーカヤッカーと速さを競い合ったり、交流がもてたりするのも楽しそうだ。ホテルの社長さんたちから、カヤックを無料で貸すから来年こないかと熱心に進められた。しかし7月に休みがとれるわけがないので、私にとっては参加するなんて夢のような話であり、とても残念である。 ホノホシ海岸の反対側にある、大島海峡に面した小さな入り江から出艇する。大島海峡の太平洋側の出入り口にあたる神の鼻を目指してみることにした。加計呂麻島と神の鼻の海峡から先は、大海原が広がっている。波も風も穏やかで、海峡の真ん中に呆然と浮かんでいると、海の深い色に吸い込まれていきそうで、気味悪い心地がする。ジュラルミンのキールと薄いビニールの船体布のすぐ下には、どこまでも深く青い奄美の海が横たわっているのだ。突然、変な縞々が海の中から浮き上がってきた。ウミヘビだ。私たちのカヤックに気づいたように、鎌首を上げて様子を窺ったが、やがてまた深い海の底に潜っていった。これはニライカナイからの使いかもしれないなあ。どうやら潮が動き出したようで、海峡に小さな渦巻きがいたるところではじまった。外海に出るのはやめて、引き返して大島海峡の真ん中にある俵小島を目指す。サンゴの海を覗き込んだり、ルアーを投げたりしながら日が暮れるまで大島海峡の海を堪能した。 最後の日も、海に出た。2日間遠ざかっていた笠利湾も、今日は穏やかである。ただ、まだ北風が吹き、外海に出るのは辛そうだった。湾の出口近くにあるクジラ浜まで行ってみたかったが、途中で雨雲が通り過ぎるとき突然突風が吹き荒れた。瞬く間に波が立ち、時化状態になった。追い風と追い波に乗せられて引き返した。カヤックはサーフィンのように進み、岬の陰へと避難した。雨雲が通り過ぎると、また穏やかな海になり、暖かい日の光も射し込むようになった。もう時間的にクジラ浜まで行けないので、手前の小さな無人の浜に上陸してみた。やさしく打ち寄せるエメラルドの波に白く洗われる砂浜が美しい。浜のすぐ後ろには、アダン、ソテツ、クワズイモといった亜熱帯の樹木やハイビスカス、ツワブキ、トランペットエンジェルの可憐な花たちが、自生している。奄美の海に、どっぷりと浸かった数日間だった。最後に、記念写真を撮る。 浜には、たくさんの漂流物が打ち上げられていた。東シナ海はやはり中国に近いから、中国製のものが目立った。殺虫剤のスプレーなど、なぜかクリントイーストウッドが害虫をやっつける用心棒だった。清涼飲料水のペットボトルのラベルの裏には、中古のパソコンを高く買いますという広告だろうか?漂流物から外国のお国柄を伺い知るのも、なかなかおもしろい。 日本のゴーギャンといわれる田中一村も、中央画壇に反発しこの奄美に漂流してきた。実はこの夏、石垣島の書店で、田中一村のことが書かれた文庫本に出会ったことが、今回の奄美大島TRIPへとつながった。奄美の亜熱帯の自然を描いた田中一村の絵は、ゴーギャンのように陽気ではなかった。最晩年に描かれた奄美の自然は、宗教画のような神秘性を感じた。一村の生き方は、ゴッホを彷彿とさせる。生涯、自分の追い求める絵を描くことだけにすべてを捧げた一村は、死後ようやく評価される。 空港の売店で、笠利町出身の歌者、里国隆のCD「黒声(クルグイ)」を土産に買った。そういえば、津軽に高橋竹山がいたことを思い出す。